本提言の問題意識
本提言は、日本の新たな『国家安全保障戦略』策定に資することを目的として、東京大学先端科学技術研究センター内に設置された創発戦略研究オープンラボ(ROLES)がまとめたものである。
日本で初めて『国家安全保障戦略』が策定されたのは第二次安倍政権下の2013年のことであり、それから9年が経過した。この間、日本を取り巻く安全保障環境が激変したことは今更述べるまでもないだろう。中国の軍事的台頭と米中対立はさらに加速しつつあり、朝鮮半島情勢は依然として緊張を孕んでいる。さらに2014年にはロシアによる第一次ウクライナ侵攻が、2022年には第二次ウクライナ侵攻が勃発した。
こうした情勢の変化を踏まえるとき、我が国の安全保障政策が大きな見直しを迫られていることは言を俟たない。
基本的な考え方
まず念頭に置かねばならないのは、国家間の大規模な軍事紛争は安全保障上の脅威として現実に排除できないということである。冷戦後にはこうした紛争の蓋然性が大幅に低下したと考えられた時期もあるが、ロシアによる第二次ウクライナ侵攻は、古典的な大戦争が決して過去のものではないことを白日の下に曝け出した。日本周辺において中国、北朝鮮、ロシアが軍事力の近代化を進めていることと併せて考えるに、大規模な軍事紛争への我が国の対処能力を向上させることは抑止力の信憑性を担保する上で不可欠の課題であると言えよう。ことに中国の戦略核弾頭は2030年までに1000発に達するとも予測されており、このような状況下では米国の拡大抑止の信憑性が低下し、インド太平洋地域の安全保障環境が一層不安定化する可能性も排除できない。以上の問題意識に基づいて、提言1では、「総合・統合・融合防衛力」をキーワードとして幾つかの提言を行った。
他方、対処・抑止能力の向上に関する取り組みは我が国単独では限界がある。ことに第二次ウクライナ侵攻によって欧州正面における抑止リソースの所要が増大するであろうことを考えると、インド太平洋地域における米国のコミットメントは、大幅に低下することはないにせよ、制約されよう。このような条件を勘案するならば、日米同盟の枠組みを超えて安全保障協力を拡大する必要性が一層高まる。したがって、提言2では、インド太平洋諸国との安全保障協力に関する提言を中心に取りまとめた。
同時に、現代の安全保障は、古典的な大戦争の抑止・対処の範疇のみには収まらなくなりつつある。情報通信技術(ICT)の急速な発達により、情報はより早く、広く、しかも政府やマスコミといった権威を経由せずに伝播するようになった。このような条件下においては、情報の主要な伝搬チャンネルであるサイバー空間の安全保障はもちろん、そこ流通する情報が人々にどのように受け取られるのかという認知領域の安全保障がかつてなく重要性を有する。しかも、これらの領域における安全保障は平時と有事の別なく常時展開されねばならず、その舞台も情報の発信と受信を担う我々自身の社会生活そのものである。現時点において、我が国はこうした新領域の安全保障に関する概念をほとんど持っておらず、新たな『国家安全保障戦略』にこれを盛り込むことは急務である。
また、認知領域の安全保障政策は、その拠って立つ根本的な価値を明確にする必要がある。安全保障とは「獲得した価値に対する脅威の不在」であると定義されるが、では日本が守るべき「獲得した価値」とは何か。言い換えると、我々が安全保障政策を行う意味とは何であるか。『国家安全保障戦略』はこの点を国民に問い、合意を得られるような根本的原理を提示するものでなければならない。提言3では、これを人権、法の支配、自由、民主主義の四つと位置付け、これらの価値観を維持・発展させるために必要な施策を提案した。