カマール・アルジャアファリーは、アート色の強いドキュメンタリー映画(「クリエイティブ・ドキュメンタリー」とも呼ばれる)の作り手として、現在世界的に高く評価されている作家の一人である。ベルリン国際映画祭を始めとする海外の映画祭のドキュメンタリー部門では、彼の名前を聞かないことの方が稀なぐらいだ。

     題材の目新しさだけで、ここまでの実績を築くのは難しい。パレスチナの実相を描こうとした映画作家は他にも大勢存在する。カマールが特別なのは、アーカイブ映像から映画を立ち上げる、そのための独自の手法を発明した点にある。彼は過去に撮影された素材をただの証拠写真に留めておかず、従来の歴史記述に挑戦するための新しい物語として編み直せる稀有な作家なのだ。

     アーカイブから映画を作ると一口に言っても、そこには様々な方法論が存在する。以下、本稿では対照的なアプローチで作られた二種類のカマール映画について取り上げたい。


Paradiso, XXXI, 108

     『Paradiso, XXXI, 108』(以下『Paradiso』と表記)を構成するショットは、どれも息を呑むほど美しい。一見、醜いものは何も映っていないように思われる。だとしたら、鑑賞中の我々がぼんやりと感じるこの不安は何なのか?この作品は、かつてイスラエル軍がプロパガンダ用に撮影した映像を、カマールが再編集することで成立している。彼は元の素材の何をどう改編し、こうした違和を生んだのだろうか。

     まず最初に目につくのは、兵士たちの極端に赤い皮膚である。元のアーカイブ素材と照合しても、カマールが人間の肌の色を大胆に変えていることは明らかだ。そしてそれを補うかのような、真緑の軍服。要所要所で強調されるこの色の組み合わせは、度々登場するタイトルの色遣いにも反映されている。

     そして終盤に差し掛かると、それまでの勇ましいBGMに変わって、クリスマスソングとして有名な「きよしこの夜」が流れ出す。青い月明かりの下で兵士たちは眠りにつく。日夜戦争に従事しているとは信じ難い、子供のように素直な男たちの寝姿。夜が明けて、空港の向こうには爆撃の煙が立ち込め、背後では楽しそうに談笑する声が聞こえる。本来合わさることのないはずのイメージが絡み合い、違和感はピークに達する。

     他の評論でも指摘されていることだが、この作品は戦争行為を描きながら、敵の姿を一度も描かない。指揮官は“I detect no enemy(敵は見当たらない)”と報告しながら、砂漠の彼方を繰り返し砲撃し続ける。戦争ごっこに興じる無邪気さと、使っている道具が殺傷能力を持つ本物の兵器であることのギャップが、違和感を増幅させていく。この作品は、戦争の被害者を画面から消去し続けることによって、その危うい美しさを担保していたのだ。

     その表面は至って平穏で、実は何の問題もないのかもしれない。カマールは最後まで被害者の姿を隠し、戦争ごっこにのめり込む自閉的な加害者を映し続けるという選択をした。『Paradiso』に埋め込まれている、読解困難な、それでいて美しい違和に気づいてしまった観客は、スクリーンから削除されてしまった存在に思いを馳せ、その輪郭を想像せずにはいられなくなるだろう。


An Unusual Summer

     普通、映画を作ろうとする者は高画質で美しい映像を撮ろうとする。高い機材に手を出したり、その道のプロを沢山集めたり、綺麗な映像を手にするために掛かる労力の数々を挙げていけばキリがない。そんな映像制作の常識に照らして考えると、『An Unusual Summer』は異常な作品だ。最初から最後まで、画面には2000年代に撮影された低画質の監視カメラの映像しか映っていないのだから。

     お世辞にも綺麗とは言い難く、ずっと同じ定点から撮られた映像しか使えないという制約を自らに課したカマールは、映画を成功させるために二つの戦略を実行することになった。一つ目は音世界の作り込み。車のドアを閉める音、排気音、激しく降り注ぐ雨と雷鳴、鳥の囀り。早送りで反復される隣人の歩行には軽やかな足音が付され、局所的に拡大されたビニール袋からはガサゴソとしたノイズが触感を伴って再生される。元の映像のニュアンスを破壊しないよう、慎重に練り上げられた音が、ラムラの日常をこの上なく雄弁に物語っている。人によっては、こうした動きと音の間に潜む絶妙なズレに、アニメーション的な快楽を感じることだろう。

     二つ目の戦略は、随所で挿入されるクロースアップと、それによる視線誘導だ。カマールの巧みな操作によって、我々は徐々に、何の変哲もなさそうな定点映像の中に、実は4つの小舞台が隠れていることに気付かされる。最初に目が行くのは、中央に位置する駐車場。そもそもこの監視カメラは、車の窓ガラスを割る犯人を見つけるために設置されたのだった。その姿を期待して、観客の目は駐車場の上を漂う。しかし、去っていく人影や木々の緑、路上に落ちる家の影が拡大して表示されることで、我々は徐々に、この駐車場を取り囲む環境そのものに目を開いていく。それは第一に、大勢の通行人が行き来する家の前の道であり、その先に開けた大通り(道路)であり、そして駐車場を挟んで佇んでいる隣家である。緻密に構成された音世界と合わさることで、凡庸な監視カメラの映像は、かつて確かに存在していたラムラの日常を映す優れた映画に変身する。

     犯人捜しがこの作品の主眼でないことは明らかだ。ミステリー的な展開を期待する観客を手玉に取るようにして、カマールは映像の時系列をずらし、隣人の風変わりなルーティーンを愛情込めて描写し、ノロノロと時を進める。ラムラのパレスチナ人の間に流れる、緊張と隣り合わせの弛緩した日常を描いている点で、この映画は他の追随を許さない。パレスチナ人は、これまでも監視カメラ越しに観察される存在であった。そういった映像の多くは、イスラエルのためになるような犯人を特定するため、都合良く使い捨てられてきたに違いない。カマールは、同じ素材を使って、確実に存在するのにないことにされてきた、故郷に流れる時間の質を描き出すことに成功している。


著者
井上 国太郎

東京大学大学院学際情報学府博士課程在籍。東京大学文学部卒業、同大学大学院学際情報学府修士課程修了。専門は映像アーカイブ及び映像人類学。映像アーカイブや映像人類学に依拠しながら、ドキュメンタリー映画の制作・研究を続けている。


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