今回の上映会が始まったきっかけは、思いのほか個人的で、偶然に近いものだった。
制作仲間の井上国太郎さんがすごく面白い映画と作家を見つけたと言い、カマール・アルジャアファリーさんの『An Unusual Summer』という映画をみた。感嘆した。イスラエルに取り残されたパレスチナ領、ラムラという地であることの文脈を超えて、映画がすごく面白かった。その熱のまま、井上さんと共にカマールさんをすぐInstagramでフォローした。井上さんはその後深く考え込んで、「カマールさんを呼んで、日本で上映会ができないだろうか」と話していた。
その翌日だったと思う。学校からの帰宅途中、私のiPhoneの通知にInstagramが表示された。カマールさん本人から私のアカウントにフォローが返ってきていた。一瞬目を疑った。すぐ腹を決めて、今しかないとフォローバックされて時間をおかずに、思い切って拙い英語で私からDMを送った。「日本の学生です。あなたの映画に感動した。いつか東京であなたの映画を上映したい。」と伝えた。そしたら快くすんなりと承諾していただき、そこから本人とのやり取りが始まった。話は驚くほど自然に進んでいった。
パレスチナ出身の映画監督を招き、東京大学と東京藝術大学が共同で上映会を行う。そう書くと、とても大きな企画から始まったように見える。しかし私たちにとっての出発点は、映画を観て、感動して、その映画を作った人に連絡してみるという、ごく単純なもので、純粋な想いだった。
私が所属する東京藝術大学の石山友美研究室は、映画、都市と建築、記録と記憶、映像アーカイブ、ファウンドフッテージなどを扱っている。石山先生自身、建築を出発点としながら、都市や社会、そこに暮らす人々の日々の営みへと関心を広げ、映画研究を続けてきた。また、各家庭に残された8ミリフィルムを大量に収集し、そこに偶然記録された人々の生活や風景から、地域の記憶を考える活動にも取り組んでいる。
私自身学部は建築学科出身であり、またその研究室で今は映画を学ぶ私にとって、カマールさんの作品でまず面白かったのは、「パレスチナについて何を語っているのか」ということだけではなかった。
たとえば『An Unusual Summer』で使われているのは、カマールさんの父親が2006年、自宅前に設置した監視カメラの映像である。目的は、自家用車を傷つける犯人を見つけることだった。しかしカメラが実際に記録していたものの大部分は、事件とは関係がない。
カメラが捉える一つの画角の空間。右の道から、あるいは左奥の道路から、中央付近に車が停められていて、ラムラで生きる人々がその空間の中に現れては消えていく。人が歩く。誰かが立ち止まる。子どもが通る。車がやってくる。その一つ一つが、人の暮らしと意図のある日常であり、カマールさんはそこに切り込んでいたと思う。監視カメラは、本来「何かが起きる瞬間」を捕まえるために設置されたはずだった。ところがカマールさんは、その目的からこぼれ落ちた時間を映画にする。そこには不思議な面白さがある。
外国人である私たちはパレスチナの映像を見るとき、どうしてもその背後にある占領や暴力、土地の喪失について考える。それはもちろん、この映画から切り離すことのできない現実である。しかし、そのことを知るあまり、画面に映っているものを、あらかじめ「失われたもの」として見てしまうこともあるのではないだろうか。『An Unusual Summer』を見ていると、むしろ画面の中では、何も奪われていないように感じる瞬間がある。
人は歩き、立ち話をし、道を横切る。そこには生活があり、それぞれの身体があり、時間が流れている。それらは政治的な出来事を説明するための背景ではなく、それ自体として妙に魅力的で、可笑しく、美しく、愛しい。そのただの何気ない人々の様子を、ときにハラハラし、ときに爆笑し、切実に映画の中に引き込まれていった。「パレスチナ」という大きな言葉をいったん脇に置いてみても、この映画は本当に面白い。
むしろ私は、そのことが重要なのではないかと思っている。
遠く離れた日本からパレスチナを見るとき、私たちは戦争、占領、破壊、犠牲といった言葉を通してその場所を理解しようとする。それによって知ることのできる現実がある一方で、何かを初めから切り取り、そこに生きている人を、出来事を説明するための存在としてしか見られなくなっていることもあると思う。しかし映画の中の人々は、私たちにパレスチナを説明するためにそこで生きて生活していたわけではない。そもそも、この監視カメラに映るために歩いていたわけですらない。
石山先生の研究では、家庭に眠っていた8ミリフィルムのような、本来は歴史資料になることを目的としていなかった映像が繰り返し扱われてきた。カマールさんの映画にも、それとどこか通じるところがある。記録された当時には重要ではなかったもの、撮影者が見ようとしていなかったものが、時間を経て別の意味を持ちはじめる。
そして映画は、それをいつも「資料」として保存するだけではない。
切り取り、並べ、時間を与え、もう一度見ることで、それまで見えていなかったものを立ち上げる力もある。カマールさんの『An Unusual Summer』の中には街に生きる人々の、何気ない行いへの、愛もあったのではないだろうか。
今回、私たちは「パレスチナの記録と可視化」という言葉を掲げて上映会を開く。しかし私自身は、パレスチナについて正しく理解するためだけに、この二本の映画を観てほしいとは思っていない。
一つの空間の中での、誰かの歩き方や癖、画面の中に流れる時間、奇妙な編集、突然現れる身体、自転車、車の送迎の様子、誰が犯人なのか映画の中で疑う時間、それと、何も起きない昼や夜の時間の長さを見てほしい。そして、どう思ったかの後で、この映像がどこで、誰によって、どのような状況のなかで撮影されたものなのかを考えてみる。その順番もまた、遠く離れた場所にいる他者と出会う一つの方法なのではないかと思う。
著者
柚木 海音
東京藝術大学大学院 美術研究科 先端芸術表現専攻 石山友美研究室