戦争の最初の犠牲者は真実だと言われる。今日、このクリシェが最も痛切に響くのはパレスチナであろう。パレスチナでは、抵抗の手段が奪われているだけでなく、暴力の記録や記録する方法そのものまでもが奪われているからだ。この構造は根深い。そこでは暴力の記録だけでなく、何を記録と認め、誰の証言に権威を与えるかという条件までもが統治されてきた。パレスチナ人自身の証言よりも、進歩的なイスラエル人の自己批判や欧米の専門機関による認証を経た言葉の方が、「信頼できる事実」として受け取られやすい。問題は個々の語り手の能力ではなく、誰が誰を語る権限を持つのかという構造的な非対称性にある。

     この非対称性は、言葉だけでなく映像にも及ぶ。イスラエル領内のラムラに生まれたパレスチナ人の映画監督、カマール・アル=ジャアファリーは、パレスチナを「撮る」のではなく、すでに撮られたパレスチナを「奪い返す」ことで、パレスチナにおける入植植民地的な剝奪と抹消の構造を可視化する。ジャアファリーの映像作品は、家族と住居を静かに見つめる初期作品から、イスラエルの劇映画やプロパガンダ映像、押収されたアーカイブへ介入する後年の作品まで、異なる空間と映像の内部に埋め込まれた政治的断絶や抑圧の断片を掘り起こしてきた。

     彼の作品のなかでは、建築物は単なる舞台装置ではない。誰が建て、誰が住み、誰が去ったのか——その息遣いを記録する歴史的な身体として立ち上がる。ナクバやその後も反復される追放と破壊を正面から再現しなくても、建築物に残る痕跡や都市空間に刻み込まれた権力関係を暴露することで、過去の追放が現在形で続いていることが明らかになる。

     その方法の原点は、2006年の『The Roof』に見いだすことができる。同作品は、ドキュメンタリーと個人的回想のあわいを往還しながら、ラムラとヤーファに住むジャアファリーの家族をとらえる。父方と母方の家族は、ともに1948年に生家を失い、別のパレスチナ人が去った住居へと移された。題名の「屋根」とは、家族が移り住んだ家の、完成しないまま取り残された上階を指している。そこでは、帰るべき家と現に住む家が重ならず、住むことそれ自体が別の誰かの不在を抱え込んでいる。作中の言葉を借りれば、「一階には両親が住み、二階には過去が住んでいる」。

     同作品には、都市や家屋の様子だけでなく、家族や近隣住民の会話と証言も織り込まれている。そこで1948年の追放は、完了した過去としてではなく、現在の生活を侵食する力として語られる。人々は追放の後を語り、建物はその時間を抱えたまま沈黙する。都市や家屋は過去を記念する静的な遺構ではない。追放と再定住によって切断された時間が、現在の生活空間に沈殿した歴史的な身体そのものなのである。『The Roof』が映すのは、失われた故郷についての回想というよりは、過去の余生として延命しつづける現在である。声は傷に意味を与え、傷は声に場所を与える。

     この初期作が示すのは、ジャアファリーにとっての可視化とは、出来事を正面から再現することでも、証言を積み上げることでもないということだ。声と壁、記憶と空白を関係づけ、そのあいだから、いまなお現在に作用する過去を浮かび上がらせる。後にこの方法は、建築空間から映画のフレームそのものへと移っていく。

     こうしたジャアファリー作品を理解する上で、「映画的占領」(cinematic occupation)と「映画的正義」(cinematic justice)という概念が有用な手がかりとなる。「映画的占領」とは、パレスチナの都市や風景が、イスラエル映画の撮影場所、エキゾチックな背景、戦争映画や犯罪映画のセットとして使用される一方で、そこに生きるパレスチナの人々は背景化、匿名化、あるいは消去されることを指す。それに抗して、「映画的正義」とは、既存映像を再編集し、その内部に周縁化されていた人物や場所を中心へ戻すこと。そして法的・政治的正義を直接実現するわけではなくても、すくなくとも映像の内部における位置、尺度、可視性を再配分することに他ならない。

     2015年公開の『Recollection』は、1960年代から1990年代にかけてヤーファで撮影されたイスラエルとアメリカの劇映画から主要な俳優をデジタル処理によって消去することで、それまで背景に置かれていた建築物やパレスチナ人の住民・通行人を前景化している。支配的な映画の外部に別のパレスチナを撮り直すのではなく、その画面の内部にすでに残っていたパレスチナを解放する仕掛けになっている。

     主要な俳優を消去する操作は単なる破壊や暴力ではない。それまで当然視されていた主役と背景の序列を露呈させ、画面内の可視性を再配分する行為である。ヤーファのパレスチナ人は、現実の都市から追放されただけでなく、その後に撮られたフィクションのなかでも、名前も物語も持たない後景へと追いやられていた。『Recollection』は、画面の中心を空っぽにすることで、その二重の追放を反転させる。俳優が消えたその場所に、都市そのものが歴史的主体として立ち現れるのである。

     『Recollection』が映画のフレーム内部で主役と背景の序列を転倒させる作品だとすれば、2024年の『A Fidai Film』は、その画面を取り巻く所有、分類、アクセスの制度へと介入する作品である。作品の出発点は、1982年のイスラエル軍によるベイルート侵攻時に押収・散逸したパレスチナの映像資料である。ジャアファリーは、1948年以前の記録、イスラエルのプロパガンダ、劇映画、押収された映像の断片など、来歴の異なる映像を組み合わせて、奪われ、散逸した視覚的記憶の〈反−アーカイブ〉を構成する。そこには、イスラエル軍が情報分析のために付したヘブライ語のキャプションも含まれていた。1957年にカランディアでオレンジを収穫する人々の映像でさえ、軍のアーカイブでは「テロリスト」と分類されていた。市井の生活者を脅威へと変換するのは、映像そのものではなく、それを分類し、説明する制度である。

     ジャアファリーは、一部の説明文や文字を赤く塗りつぶし、映像を着色し、反復し、音響を再構成することで、傷ついた資料を傷ついたまま別の歴史へと編み直す。この赤い塗抹による介入は、軍のキャプションだけでなく、劣化したフィルムの傷跡や海面にも施される。赤は血と傷、反復される破壊を示すと同時に、過去の映像を現在へと接続し、その意味を転移させる記号となる。これは資料を元の状態に復元する作業ではない。映像に誰が名前を与え、どの意味で保存し、誰に閲覧を許すのかという権限そのものへの妨害である。題名の「フィダーイー」(身を挺する解放闘士)は、既存映像に埋め込まれた所有関係と意味づけを内部から撹乱するこの映画自体の方法を表している。「映画的正義」はここで、画面内の可視性の再配分から、映像の所有、分類、解釈をめぐる闘争へと拡張される。

     政治学や地域研究では、映像はしばしば「プロパガンダ」「世論形成」「証拠」として扱われがちである。しかし、ジャアファリーの作品が示すのは、映像が政治を表象するだけでなく、それ自体が可視性を配分する制度であるということである。『The Roof』では建築空間、『Recollection』では映画画面、『A Fidai Film』ではアーカイブが、誰を歴史的主体として認め、誰を不在、背景、脅威として処理するのかを決める装置として現れる。撮影、編集、分類、保存、公開は、いずれも中立的な技術ではない。それらは、何を収蔵し、どの名称で分類し、誰に閲覧を認めるかを通じて歴史的主体と安全保障上の対象との境界を形成する「制度」であり、生活者と脅威、記憶と情報、歴史と忘却を編集する「統治」の実践なのである。

     戦争の最初の犠牲者が真実だとしても、ジャアファリーは新たな「真実の映像」を提示しようとするのではない。彼が明らかにするのは、映像が単なる記録ではなく、誰を主体として認め、誰を背景や脅威として処理するかを決める可視性の「制度」としても緻密に作動しているということである。パレスチナでは、何が見えるかだけでなく、誰が見る権限を持ち、誰が映像の意味を決めるのかまでもが支配されている。彼の「映画的正義」は、土地を奪還し、占領や差別を終わらせる「政治的正義」の代替にはならないだろう。それでも、正義に先立って不均等に配分されてきた可視性の秩序を、映像の内部から切り崩すことはできる。彼が奪い返すのは過去の映像だけではない。パレスチナ人が、みずからの生活をみずからの歴史として見つめ、名づけ、語る権利なのである。


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