はじめに
戦後日本の外交・安全保障政策の大枠が、吉田茂首相の選択に規定されたことは論を俟たない。戦後外交の史的展開が、いまなお一般的には「吉田路線」あるいは「吉田ドクトリン」といった用語で説明されることも、そのことを裏書きしている。だからこそ、吉田外交それ自体にせよ、あるいは「吉田路線」ないし「吉田ドクトリン」といった分析概念にせよ、その評価は常に論争的であり、かつ注目を集め続けている。「吉田や吉田を中心とした路線対立が、その後の時代や第二次世界大戦後の日本外交全体、さらには同時代を分析する際の参照点として再生産され続けている」と評される所以である(1) 。
本稿は、講和独立と再軍備の問題を中心に、主要な「吉田路線」論の特徴と展開を整理するものである。その際、本稿では「吉田路線」について、「軽武装・経済優先」といった通説的理解のみならず、広く講和独立と再軍備のあり方に関する吉田の選択とその評価に着目して検討を進めたい。それは、後述するように、「吉田路線」論の内容が、高坂正堯の吉田評伝に端を発する「軽武装・経済優先」といった定義付けから、いささか転じ始めたからである。本稿ではそうした点に留意しつつ、戦後の諸々の局面に応じて、「吉田路線」へのまなざしが変化を遂げてきた様相を跡付けたい。なお、吉田及び吉田外交に関する研究には枚挙に遑がないなかで、本稿が扱える「吉田路線」論には限りがあり、極めて粗いデッサンになることを予めお断りしておきたい。
一 「宰相吉田茂論」以前と以後
広く知られるように、首相在任中の吉田に対する同時代的評価は決して芳しいものではなかった。吉田は左右双方の政治勢力から、単独講和の決断や憲法九条を残したままの「なしくずし」再軍備が「対米一辺倒」だと激しく攻撃され、左からは全面講和や非武装中立を、右からは改憲再軍備や自主外交を要求された。1954年12月に吉田が首相の座を追われた後は、鳩山一郎、石橋湛山、岸信介といった反吉田保守勢力の政権が続き、対米協調を前面に押し出す吉田流の外交は、1960年の池田勇人政権発足まで逼塞を余儀なくされた。周知のように、吉田外交の再評価が本格化するのは、1964年2月に高坂正堯が『中央公論』誌上で「宰相吉田茂論」を発表した後のことである。
では、高坂が体系的な解釈を施す以前には、吉田外交に関する政権関係者の自己認識は如何なるものだっただろうか。代表的な例として、宮澤喜一の『東京―ワシントンの密談』(1956年)と、吉田の『回想十年』(1957-58年)をとり上げたい。
前者は、池田蔵相の秘書官から参院議員に転じた宮澤の回顧録であり、講和交渉や再軍備問題の舞台裏を示した著名な作品だ。高坂の「宰相吉田茂論」と比べたとき、興味深いことは、宮澤がこの段階では吉田外交と経済復興との因果関係の説明に重きを置いていなかったことである。広く知られるように、宮澤は、米国の再軍備圧力に対峙する吉田の真意を、そんなことをすれば経済復興は「中絶」するし、日本は再軍備など到底できる状況にはないというものだと説明する。その上で、1953年秋の池田・ロバートソン会談でもって、「アメリカが莫大な数字を口にして日本の防衛隊の増強を要求している、という不愉快な印象は拭われ」たと説いた(2) 。
だが、宮澤が同書のなかで吉田外交の経済性に言及する箇所は、実は上記のものを含めてもわずかしか見受けられない。また、宮澤の語りも、再軍備への抵抗(軽武装)が経済復興の礎になった―あるいは、礎にしたいという狙いがあった―という積極的な評価ではなく、吉田は復興途上の日本に再軍備の余力はないと考えていた、という程度のものにとどまるのである。
こうした宮澤の吉田外交評価は、当時の吉田や池田のそれと比べると一層慎重さが際立つ。周知の通り、吉田は対英米協調を日本外交の本然的な姿と捉え、欧米先進諸国との自由通商や積極的な外資導入を重視した。彼は『回想十年』において、日米安保体制と経済復興について、政治的安定の観点からこう述べている。曰く、「日米共同防衛体制」の真の価値は、「国防の安全並びに治安の保障」を通じて、「戦後十年の復興再建の基礎をなし、さらに外資の導入を促す根本条件たる政治的、経済的、社会的安定」を齎した点に求めるべきである (3)。吉田が自覚的に日米安保体制による「軽武装」を選択し、経済復興を優先したことは疑いないのだが、その両者に直接的な因果関係を認めるのではなく、日米安保体制による軍事安全保障の確保が、経済復興に不可欠な国情の安定に資するという、間接的な説明にとどめていることが興味深い。同じ『回想十年』において、池田勇人がもっと直裁に、「戦後十二年の間に、日本の経済が思いの外に立ち直ったのには、〔…〕軍備に金を使わなかったということは、財政経済の面からみると、たしかに大きな原因の一つである」と断言することに比べれば、「『経済中心主義の外交』なんてものは存在しない」という吉田の姿勢が顕著に浮かび上がるのである (4)。
このように、1950年代後半の段階では、吉田やその周辺ですら吉田外交と経済復興の因果関係に対する評価は共有されていなかった。他方で、当時の政権与党の認識に目を移すと、自由党及び自由民主党の選挙政綱といった政策文書では、日米安保体制の存在と経済復興は没干渉のものとして、それぞれ別個に説明を与えられている。つまり、外交・安全保障の項目で社会党の中立外交論の非現実性を難詰して安保体制の軍事安全保障上の重要性を示す一方、これとは別に経済政策の項目で、保守政権下の経済復興の実績を論じて社会主義的計画経済の非能率性を強調するのが常であった。もちろんその中では、日本が「反米容共」の外交を推進すれば、米国を中心とする西側自由主義諸国との経済関係が損なわれて国民生活が困窮する、などと論じられたこともある。だが、日米安保体制と経済復興の直接的な因果関係については、1959年6月の参院選に対する政権公約ですら言及されることはなかった(5) 。
管見の限り、自民党が軽武装論をはじめとして、日米安保体制それ自体と経済復興との因果関係を正面から論じはじめたのは、岸政権の後期、安保改定をめぐる党内調整が山場を迎えた1959年7月末のことである。当時、党内調整を主導した賀屋興宣や船田中らは、安保改定に世論の支持を獲得すべく、「日本の今日の平和と安全、従って経済の繁栄は安保条約の背景による」ということを広報宣伝資料の先頭に据えた。そして、独立から7年で驚異的な経済発展と国民生活の安定が実現できたのは、「日米安保条約によって、わが国の防衛費の負担が著しく軽くなり、そのため他の重要施策の実現が可能となった」からだと大々的にアピールしたのだった (6)。このような日米安保体制の経済的効用を説く安保効用論は、岸首相自身も1959年9月以降の国会答弁で用いはじめた。その後、安保闘争を経て池田政権が発足すると、衆院選に向けて発表された1960年9月の「自民党新政策」において、初めて安保効用論が党の選挙政綱に盛り込まれたのである (7)。
このように、自民党でも1950年代までには日米安保体制(による軽武装)と経済復興を因果関係で結ぶ議論が提起され始めていた。他方で、この段階の安保効用論は、「吉田」という冠がないことが特徴であった。さらに言えば、池田が1957年から58年の段階で、経済復興を吉田外交の所産なのだと先駆的な評価を打ち出す一方、宮澤の言説には安保効用論の原型すら見出しにくい状況なのである。事実、宮澤は安保改定交渉の瀬踏みとなった1957年6月の岸訪米に対する論説でも、あるいは、自民党が安保効用論を打ち出す直前の1959年夏に行われたロング・インタビューでも、『東京―ワシントンの密談』を踏み出すような評価や見解は示しておらず、吉田の選択と経済復興とのリンケージには言及していない (8)。
さて、周知の通り1964年2月に発表された高坂の「宰相吉田茂論」は大きな反響を呼び、吉田外交の再評価が本格化した。「宰相吉田茂論」の詳細な内容及び評価は中西寛氏の諸論考に譲るとして、ここでは、高度経済成長と先進国化が実感できた1964年に高坂が経済復興の祖として吉田を捉え直し、軍事力に二次的役割しか認めない「商人的国際政治観」に基づく吉田外交が、日本に「経済中心主義というユニークな生き方を根付かせた」と論じたことのみ確認しておきたい。また、高坂がさらりと、講和独立当時の日本には吉田の実際の選択とともに、戦争放棄の精神を貫いて永世中立を目指すこと、再軍備の上で多数講和を目指すことという、「理論的には三つの可能性を持っていた」と指摘したことにも留意したい (9)。
注目すべきは、この「宰相吉田茂論」が公刊されたのち、宮澤の吉田外交評価に微妙な変化が加わることだ。宮澤は1965年6月の『社会党との対話』のなかで、日米安保体制には平和と安全の確保のみならず、「非生産的な軍事支出を最少限にとどめて、ひたすら経済発展に励むことができた」という経済的効用があると語る。その上で、「吉田茂元首相がダレスの要求する再軍備を頑強に粘って断り、もっぱら経済立国に重点を置いて政治を行なってきたこと」で「今日の経済繁栄の基礎を作ることができた」点に、「戦後の保守党政治の最大の功績」があると強調したのである(10) 。
こうして、1965年ごろまでには吉田の選択(単独講和、再軍備への抵抗)、日米安保体制、経済復興が因果関係で結ばれる言説が打ち出され、一定の浸透をみるようになった。ちなみに、「吉田路線」という用語自体は、管見の限り、当時はまだ日の目を見ていない。むしろそれは、後述するように、1970年代後半から80年代前半にかけて、吉田外交こそ戦後一貫する日本の戦略だったと評価する「吉田ドクトリン」概念が登場したことに前後して生まれた用語だと考えられる。いずれにせよ、本節では、高度経済成長が本格化するなかで、吉田外交の本質を「経済中心主義」と規定し、日米安保体制による軽武装という吉田の選択が経済復興の礎になったという解釈が定着し始めたことを確認しておきたい。そして、こうした「吉田路線」論は、自民党政権と日米安保体制の正当性を、安保闘争やベトナム戦争、「七〇年安保」という国内的危機から守り抜く政治的言説として機能したように考えられるのである。
二 五百旗頭真の三路線分類と対米「協調」/「自主」外交論
その後、1980年代に「吉田ドクトリン」概念が普及したのち、戦後日本外交に関する実証研究も本格化した。すると、「吉田や吉田後の日本外交を歴史的に分析する視座として『吉田ドクトリン』や『吉田路線』に言及され」はじめ、「日本外交を吉田の選択を参照点に論じる見方が再生産されることとなった」(11) 。こうしたなかで生み出された代表的な戦後日本外交の分析枠組として、本稿では五百旗頭真氏の三路線分類(「経済中心主義路線」、「伝統的国家主義路線」、「社会民主主義路線」)と、添谷芳秀氏の三路線分類(対米「協調」路線、対米「自主」路線、対米「独立」路線)をとりあげたい。
五百旗頭氏は1989年の著書『日米戦争と戦後日本』にて、敗戦後の日本には、経済復興と繁栄を重視する「経済中心主義路線」(「吉田路線」)、自立と国力を重視する「伝統的国家主義路線」、平和と民主主義を掲げる「社会民主主義路線」が鼎立したと論じた。その上で、安保闘争と、池田政権による「政治の季節」から「経済の季節」への転換をへて、「吉田路線」が再浮上したと指摘する(12) 。五百旗頭氏は、国内冷戦や保革対決の構図で語られがちで、かつ「吉田路線」論とはやや相性の悪い五五年体制論から距離をとり、いささか傍流めいた「伝統的国家主義路線」と「社会民主主義路線」を析出した。それにより、高坂が触れた講和独立時の「三つの可能性」を詳細に示し、「吉田なき吉田路線」として「経済中心主義路線」へと収斂する経緯を体系的かつ具体的に描き出したことに、五百旗頭説の妙味があったと思われる。
その一方、吉田を「経済中心主義」者として三分類の引照基準に据えたことは、「伝統的国家主義路線」ないし「社会民主主義路線」の経済・社会政策を見えにくくした。端的にいえば、吉田の経済復興のあり方や経済運営をめぐる政策論争が等閑視されがちなのである。戦後復興期において、しかも議会多数派を獲得しようとする限り、いずれの政治勢力も経済政策は重視せざるを得ないところで、「経済中心主義」は吉田の専売特許ではなかった(13) 。例えば、保守合同をめぐる政策論議の焦点は経済自立問題であり、吉田の経済自由放任主義や、政権末期の安定恐慌(吉田デフレ)に対して、経済活動に一定の計画性を付与し、社会政策を拡充せよというのが、岸信介や第二保守党といった「伝統的国家主義路線」に類される面々の主張であった。「社会民主主義路線」とて、全面講和論にせよ、社会党(左派)の平和経済建設五カ年計画にせよ、単独講和で大陸市場を喪失した日本には、社会主義的計画経済と非武装中立こそが経済復興の道だという彼らなりの論理があった(14) 。元来、まず日米安保体制と経済復興の因果関係が先に岸政権期に見出され、吉田を「経済復興の祖」の座に戴くのはその後だったことは、同時代的な吉田の経済運営への評価を物語ると思われるのである。
これに対し、添谷氏は、この五百旗頭説と「ほぼ同じ」ものとして、「アメリカを中心とした国際秩序『パックス・アメリカーナ』と日本の『接点』」に着目し、対米「協調」路線、対米「自主」路線、対米「独立」路線の交錯として戦後日本外交の構図を読み解いた。岸政権期に対米「自主」路線が成長し、池田政権期の対米「協調」路線の定着を経て、佐藤政権期に両者は「融合」したというのが、添谷氏の提示した見取り図だった。添谷説は、五百旗頭説同様に、吉田政権期という特定の時期の政策対立を引照基準とした路線分類だったが、これを用いた「日本外交」の展開(例えば、対米「自主」の成長、対米「協調」との融合など)を説明したことが特徴的だった(15) 。
その一方で、添谷説と五百旗頭説の間には、そもそも路線分類の立脚点に重要な相違があった。それは第一に、五百旗頭説が内政要因を組み込んだ政治路線ないし政治外交路線(政治勢力)を射程に置いたことに比して、添谷説の射程は基本的に、吉田以降の各首相個人の在任中の外交ないし対外構想に基づく、「日本外交」を主語としたものだったことである。第二には、五百旗頭説が、三路線それぞれが重視した価値理念に準拠する質的分類だったのに対し、添谷説は「パックス・アメリカーナ」との距離を尺度とした量的分類だったことである。典型的には、「対米『自主』の立場は、〔…〕『パックス・アメリカーナ』からの独立を目指していた対米『独立』よりは、対米『協調』の立場に近い」といった記述が見られる(16) 。
その結果、添谷氏による外交路線分類は、その各々の内部の動的側面や、他の二つの路線との共時的な相互作用が分析の射程外になったきらいがある。例えば、対米「協調」路線が「アメリカ主導の国際秩序のなかで軽武装を維持しつつ経済復興を目指す」ものだという定義は吉田や日米安保の存在抜きには考えられないが(17) 、それ以前の戦後(占領期)にはどれほど適用できるのだろうか。むしろ、占領期の過半は、「社会民主主義路線」(添谷氏のいう対米「独立」路線)こそがパックス・アメリカーナの国際秩序に最も協調的なのであって (18)、吉田はむしろ対米「自主」的ではなかったか。片山・芦田の中道連立政権の「外交」(例えば、芦田書簡)はどのように評価できるだろうか。国際秩序の変動とともに対米「自主」と「協調」の含意も変わりうる(特に1970年代以降、対米「自主」的であることが、対米「協調」的であることにもつながる)という、すでに添谷氏によっても提起されてきた問題も含めて考えたとき、添谷三分類には、国際秩序要因(パックス・アメリカーナ)に付随して生じる、各外交路線の政治勢力(メンバーシップ)の流動性をどう捉えるのかという点に、今なお検討の余地が残されていると考えられるのである。
三 「九条・安保体制」としての「吉田路線」論
ところで、以上に見た五百旗頭説や添谷説と相前後するが、冷戦が終焉し、湾岸危機・湾岸戦争を経た後には、戦後日本外交の通史的理解において、憲法九条と日米安保体制の相互関係が一段と注目されるようになった(19) 。もちろん、言うまでもなくこの両者の矛盾や安保体制の合憲性といった論点は、憲法学のみならず、憲政史の視座から長らく提示され続けてきた。これに対し、冷戦終焉前後に浮上したのは、憲法九条と日米安保体制の相互作用を所与の条件として受け止めた上で、戦後日本外交の通史的な構図を説明しようという試みだった。その背景には、経済大国としての地位が揺らぎつつ、湾岸危機・湾岸戦争への対応で混乱し、「一つの世界」における国際貢献論の台頭や日米防衛協力の拡大強化によって憲法論議が度々紛糾するという冷戦終焉後の情勢変化があった。沖縄少女暴行事件の発生も踏まえた、基地問題というアポリアも改めてクローズアップされるなか、軽武装・経済中心主義・日米安保基軸としての「吉田路線」ないし「吉田ドクトリン」論の訴求力が陰りをみせはじめたのである。実際、五百旗頭真氏も、「1990年代に安全保障上の危機が頻発し、それへの対処に取り組む中で、吉田ドクトリンは〔『グローバル・シビリアン・パワー』志向と『普通の国』志向との〕二つの立場への分解を開始した」と指摘していた (20)。そこで以下では、憲法九条と安保体制の相互関係という観点から「吉田路線」を捉え直した、酒井哲哉氏と添谷芳秀氏の議論を検討したい。
酒井氏は、『国際問題』1991年3月号に「『九条=安保体制』の終焉」を寄稿した。そこでは、安保闘争後の保守政権のチェンジ・オブ・ペースや米ソのデタントを背景にあげて、革新陣営が日米安保条約を消極的ながら受容し、保守勢力も米国の負担分担要求に抵抗すべく憲法九条を必要とするなかで、「九条路線と安保路線の融合」としての「『九条=安保体制』こそが、六〇年代半ば以降の日本外交の準拠枠組み」になったことを指摘した(21) 。その上で酒井氏は、新冷戦によって変質し始めたという「九条=安保体制」が、冷戦終焉によっていよいよその拘束力を決定的に奪われると予期しつつ、特に「九条路線」の価値を問い直した。酒井氏は、「『戦後』を知らない」近年の日米協調論者は、「批判精神をもった外交的リアリズムを喪失し、またその視野を狭隘化させているようにみえ〔…〕『九条=安保体制』に込められた深慮を読みとることは困難なことであろう」と論じ、冷戦終焉が「九条=安保体制」の崩壊をもたらすと想定したのである(22) 。
こうした問題関心からか、酒井氏は同論文のなかで、吉田路線に「擬装された自主外交」という評価を下している。すなわち、憲法九条は吉田にとって、単独講和ないし日米安保条約の締結といった決断を促す外的な制約要素だっただけでなく、米国の冷戦戦略に一定の距離をとることを可能にし、革新勢力がその「盾」となって九条の硬度を高めた。その意味で、「九条路線」は吉田路線の「自主性」の強力な援軍だったのだと、酒井氏は論じたのである。
これに対し、添谷氏は「吉田路線」と「吉田ドクトリン」論の関係を整理していき、前者を「平和憲法と日米安保条約をふたつの柱とする戦後日本外交の基本路線」と定義づけた(23) 。すなわち、「吉田路線の基盤には、第九条ゆえに平和憲法と称された戦後憲法 (1946年11月公布)と、日米安全保障条約(1951年9月調印)があった。平和憲法と日米安保が、軽武装と経済中心主義を支えた」と述べ、同路線の本質的な構成要素から経済性ないし経済復興を外して、そこに憲法九条を据えたのである。そして添谷氏は、「吉田路線」は、岸政権の安保改定や、池田政権期における経済成長の爛熟と先進国化によって1960年代には定着し、さらに、防衛計画の大綱や日米ガイドラインの策定を通じて、70年代に制度化されたと論じた。その上で、「吉田ドクトリン」論を、「吉田路線」に基づく戦後日本外交が国際政治の現実や政治的挑戦によって揺さぶられるなかで、様々な観点から70年代後半から80年代に提起された、「軽武装、経済中心、日米安保」こそ戦後日本外交の一貫した戦略なのだという言説の集積だと指摘し、これを、実体的な外交路線としての「吉田路線」と切り分けたのである(24) 。こうしたなかで、添谷氏は、第二次安倍晋三政権による「平和安全法制」に前後して、近年「吉田路線」に代わり、「九条・安保体制」ないし「九条―安保体制」という枠組みで戦後の外交・安全保障政策の通史的研究を進めている (25)。
酒井論文と添谷氏との間には、憲法九条と日米安保体制の相互関係についてニュアンスの相違がある。酒井論文の妙は、戦後対峙し続けてきたように見える「九条路線」と「安保路線」が、実は融合し、あるいは「共依存関係」にあったことを強調した点にあった。そして、「戦後日本外交においてもっとも支持基盤の厚い外交路線」だという「九条=安保体制」は、冷戦終結とともにその命脈が尽きるものだと予見されていた(26) 。これに比べて、添谷氏は、戦後処理の産物としての憲法九条と、冷戦の産物としての日米安保体制を並存したことに伴って生じた、戦後外交の構造的な「ねじれ」や矛盾、「平和国家」像と大国像の「二重アイデンティティ」、国論の分断といった問題点に照準を合わせている。その上で添谷氏は、「九条・安保体制」は乗り越えるべきものであるにもかかわらず、結局はそこに引き戻される拡大と収縮の力学が生じ、不変なのだと論じるのである。
こうした添谷「九条・安保体制」論については、前節で論じた添谷三分類、すなわち、対米「協調」路線、対米「自主」路線、対米「独立」路線の交錯として氏が読み解いた「戦後日本外交の構図」といかなる関係を有しているのか、素朴な興味が湧く。それは、両者が相互に別個の対象を射程に置いた没干渉の、両立可能な枠組みなのか、それとも重畳していて、接合可能な分析枠組みなのかという問いであり、戦後外交を規律し、方向づける主因は国際秩序(パックス・アメリカーナ)との距離にあるのか、憲法九条(と安保のねじれ)という日本側のあり方に存するのかと考えさせられる。また、戦後の外交・安全保障政策の史的展開を紐解けば、一貫して憲法九条が解釈改憲によって日米安保体制の発展強化に道を譲ってきたのではないか。憲法九条の法的拘束力や政治的乃至社会的規定力といった「収縮の力学」は、安保の「拡大の力学」と比べてどこまで実態のあるものだったのかという疑問も拭えないところではある。
それはともかく、話を「吉田路線」論に戻そう。添谷氏は、憲法九条を第二次世界大戦後の秩序構想の産物として、日米安保条約を冷戦の発生に伴う国際秩序の産物として捉えて、その併存を「吉田路線」の基盤だと述べている。その意味では、添谷氏の議論は構造決定論的な視角に立っており、「軽武装」による経済復興を優先したという、従来の「吉田路線」論で語られてきた吉田の「経済中心主義」という主導性は、やや後景に退く形となった。他方で、添谷氏の「吉田路線」論は、吉田外交の実像やその後の戦後日本外交の理解という意味では、射程が絞られ、確度が高まったと評せよう。吉田が為政者として経済復興を最重視する立場にあったとしても、それが彼の主観のなかで外交政策ではなくて、その合理性を制約する環境要因であったことは、「『経済中心主義の外交』なんてものは存在しない」という高坂への発言からも汲み取れる。また、吉田の漸進的再軍備や対米協調外交を鑑みたとき、後世の我々がその経済復興への直接的な因果関係は見出し難くても、彼が憲法九条を残し、その拘束力や法的整合性を勘案して戦後外交を切り盛りしたことは疑う余地のないところであろう。「経済中心主義」よりも憲法九条と日米安保条約の併存の方が、戦後日本外交それ自体を通底する核心的な特質だとした点に、添谷説の画期的な貢献が見出せるのである。
結びに代えて
以上のように、本稿では、講和独立と再軍備のあり方に関する吉田の選択とその評価という観点から「吉田路線」論の特徴と展開を整理してきた。もちろん、吉田に関する研究は汗牛充棟で、ジョン・ダワー氏に代表される反共主義、「逆コース」の主導者という史的評価が一方にあり、「吉田路線」についても、豊下楢彦氏や三浦陽一氏が示すような、批判的評価が存在する。近年では、日米安保体制(基地提供)、軽武装、経済復興(経済成長)という「吉田ドクトリン」の三本柱は、史実に照らしても、あるいは米国の他の同盟国との比較や世界のデータセットといった計量分析に照らしても擬似相関に過ぎず、戦後外交の教義とするには不適切だと主張する、保城広至氏の研究も出された。そうしたなかで、本稿はあくまでも、吉田外交それ自体ではなく、「吉田路線」論の史的変遷を概観したものにすぎない。
それでも、以下のことは確認しておきたい。それは、もともと吉田本人を含む政権関係者ですら、吉田の選択(単独講和、再軍備への抵抗)、日米安保体制、経済復興を因果関係で結ぶ認識枠組みを持ち合わせたわけではなかったということである。むしろ、岸政権期に安保改定を通じて、まず日米安保と経済復興の関係性を強調する安保効用論が生み出され、その後に高坂の「宰相吉田茂論」によって「吉田」という冠が加わった。これを受けてか、宮澤の『社会党との対話』では、『東京―ワシントンの密談』といった彼の主要な言説からは筆致が変化し、吉田の講和や再軍備のあり方が経済繁栄の基礎を作ったという評価が前面に押し出されるようになった。
かくて、高度成長の本格化と軌を一つにして、吉田の選択、日米安保体制、経済復興を因果関係で結ぶ「吉田路線」論が徐々に定説化し、自民党政権と日米安保体制の正当性を、安保闘争やベトナム戦争、「七〇年安保」という国内的危機から守り抜く政治的言説として機能した。そこから、1980年代には、日本外交を通観する戦略論としての「吉田ドクトリン」概念が普及し、五百旗頭真氏や添谷芳秀氏が、「経済中心主義路線」、「伝統的国家主義路線」、「社会民主主義路線」といった路線分類や、対米「協調」路線、対米「自主」路線、対米「独立」路線といった図式的整理を提示した。日本側の戦後外交文書の公開が進展する以前、1990年代半ばから2000年代には、米国側の外交文書や日本側の政治主体が遺した日記等の個人文書、堂場文書などが活用されて、1950年代から60年代に関する実証的な戦後外交史研究が本格化したが、そこでは、「吉田ドクトリン」が引照基準におかれがちであり、しばしば論争を引き起こしながら、「日本外交を吉田の選択を参照点に論じる見方が再生産される」 ことにつながった(27)。
その一方、冷戦終焉後に「吉田ドクトリン」概念に代わって浮上したのが、憲法九条と日米安保体制の併存として「吉田路線」を捉える見方であった。無論、そこには九条と安保体制の融合(「九条=安保体制」論)に焦点を合わせるか、両者のねじれに注目するか(「九条・安保体制」論)という相違はある。だがそれは、戦後外交の軌跡から、経済大国の地位が揺らいで「一国平和主義」の限界が露呈したポスト冷戦期の日本外交を展望する上で、より実用性を増した見取り図だったといえよう。
以上の検討から窺えることは、「吉田路線」論が、その時々の現実政治に関連づけられる形で、すなわち、唯物史観的な対米従属批判や中立論争、経済復興問題、エコノミック・アニマル批判、「普通の国」論争といった、その折々の局面で念頭に置く対象に応じて、適応と変容を遂げてきたということである。
言うまでもなく、吉田外交は戦後日本の方向性を決定づけたのであり、その評価は政治的言説となりやすい。かつて中西寛氏は、「半世紀前の吉田の外交をめぐる評価が今日かくも議論され、しかも対立的なものとなっている理由は、吉田外交の評価が現在の日本の対外政策、外交姿勢に対する把握と直結していると多くの論者が考える」からであって、それゆえに「吉田路線」や「吉田ドクトリン」と言う言葉が生まれて人口に膾炙したのだと指摘した(28) 。このような傾向は、「吉田ドクトリン」論争の華やかなりし1990年代半ばからの10数年間のみならず、今後も間欠泉のように起こりうるのではないだろうか。
例えば、2000年代後半以降の戦後外交史研究では、ポスト冷戦期外交のもう一つのアポリアといえる歴史認識問題の重大性に照らして、サンフランシスコ講和体制をそうした角度から再検討し、日本の戦後処理外交を史料実証的に考察する潮流が本格化している。それは、「吉田ドクトリン」概念でも、「九条=安保体制」論でも射程の外に置かれた論点であろう(なお、添谷氏の場合は、分析枠組みに占める歴史認識問題の比重の大きさが稀有な特長であった)。けれども、こうした戦後処理問題も淵源を辿ると、その過半は、最終的には講和独立と再軍備のあり方に関する吉田の選択に行き着くであろう。その意味で、吉田外交それ自体から「吉田路線」論が政治的言説として浮上し、そこからさらに「吉田ドクトリン」概念が案出されたことと相似形に、戦後処理外交の軌跡についても、吉田の選択を新たに意味づける形でしか体系的な理解は難しいのではないだろうか。「吉田路線」論は、吉田の決断の大きさゆえに、その折々の現代を投影したプリズムとして戦後外交像を照し出してきたと考えられるのである。
注
(1)白鳥潤一郎「『戦後外交』の再検討」(松浦正孝編著『「戦後日本」とは何だったのか―時期・境界・物語の政治経済史―』ミネルヴァ書房、2024年、361−381頁)、365頁。
(2)宮澤喜一『東京―ワシントンの密談〔文庫版〕』(中央公論新社、1999年)、159-162頁及び274-275頁。
(3) 吉田茂『回想十年 下〔文庫版〕』(中央公論新社、2015年)、133−139頁。
(4)吉田茂『回想十年 中〔文庫版〕』(中央公論新社、2014年)、369頁。高坂正堯『宰相吉田茂〔文庫版〕』(中央公論新社、2006年)、258−259頁。
(5)自由党政務調査会『政調シリーズ1 防衛論争の解説』(自由党、1953年)。自由党政調事務局編『自由党の政策―一問一答―』(自由党政務調査会、1955年)。自由民主党『自由か独裁か 繁栄か貧困か―自由民主党と社会党の政策対比―』(自由民主党出版局、1958年)。同『自由と繁栄への道―政策解説―』(自由民主党広報委員会、1959年)。
(6)自由民主党政務調査会編『日米安保条約をなぜ改定するか』(自由民主党広報委員会出版局、1959年)。「PRについて」1959年9月28日(「財政史資料 賀屋文書」528所収、国立公文書館所蔵)。
(7)濵砂孝弘『安保改定と政党政治―岸信介と「独立の完成」―』(吉川弘文館、2024年)、245-246頁。
(8)宮澤喜一「安保条約締結のいきさつ」(『中央公論』第72巻第6号、1957年、65−73頁)。同「改定反対から消極的賛成へ」(『中央公論』第74巻第11号、1959年、176−181頁)。
(9)高坂、前掲書、68-75頁。
(10)宮澤喜一『社会党との対話―ニューライトの考え方―』(講談社、1965年)、24−38頁及び192−203頁。
(11)白鳥、前掲論文、370頁。
(12)五百旗頭真『日米戦争と戦後日本〔文庫版〕』(講談社、2005年)、263−273頁。
(13)柴田茂紀「吉田路線と日米『経済』関係」(『国際政治』第151号、2008年、73−88頁)、73頁。
(14)中北浩爾『一九五五年体制の成立』(東京大学出版会、2002年)参照。
(15)添谷芳秀「戦後日本外交の構図」(『法學研究』第65巻第2号、1992年、79−101頁)。同『日本外交と中国 1945-1972』(慶應通信、1995年)、8−27頁。
(16)添谷、前掲『日本外交と中国』13頁。
(17) 同上、9頁。
(18)中北浩爾『経済復興と戦後政治―日本社会党1945-1951年―』(東京大学出版会、1998年)。
(19)例えば、吉次公介「戦後日米関係と日本国憲法―憲法第九条と日米安保体制を中心に―」(同時代史学会編『日本国憲法の同時代史』日本経済評論社、2007年、3−31頁)。
(20)五百旗頭真「戦後日本外交とは何か」(同編『戦後日本外交史〔第三版補訂版〕』有斐閣、2014年、279−316頁)、307−308頁。
(21)酒井哲哉「『九条=安保体制』の終焉―戦後日本外交と政党政治―」(『国際問題』第372号、1991年、32−45頁)。
(22)同上、42−45頁。
(23)添谷芳秀「吉田路線と吉田ドクトリン―序に代えて―」(『国際政治』第151号、2008年、1−17頁)。同『日本の外交―「戦後」を読みとく―』(筑摩書房、2017年)。
(24)添谷、前掲「吉田路線と吉田ドクトリン」参照。
(25) 添谷芳秀『安全保障を問いなおす―「九条―安保体制」を越えて―』(NHK出版、2016年)。同「中庸としての『九条・安保体制』」(添谷芳秀編著『秩序変動と日本外交―拡大と収縮の七〇年―』慶應義塾大学出版会、2016年、3−28頁)。
(26)酒井、前掲論文。佐竹知彦「戦後日本の安全保障と『9条・安保体制』」(『NIDSコメンタリー』第114号、2020年、1−4頁)。
(27)白鳥、前掲論文、370頁。
(28)中西寛「〝吉田ドクトリン〟の形成と変容―政治における『認識と当為』との関連において―」(『法學論叢』第152巻第5・6合併号、2003年、276−314頁)、277頁。
主要参考文献
・五百旗頭真『日米戦争と戦後日本〔文庫版〕』(講談社、2005年)
・五百旗頭真「戦後日本外交とは何か」(五百旗頭真編『戦後日本外交史〔第三版補訂版〕』有斐閣、2014年、279−316頁)
・高坂正堯『宰相吉田茂〔文庫版〕』(中央公論新社、2006年)
・酒井哲哉「『九条=安保体制』の終焉―戦後日本外交と政党政治―」(『国際問題』第372号、1991年、32−45頁)
・柴田茂紀「吉田路線と日米『経済』関係」(『国際政治』第151号、2008年、73−88頁)
・白鳥潤一郎「『戦後外交』の再検討」(松浦正孝編著『「戦後日本」とは何だったのか―時期・境界・物語の政治経済史―』ミネルヴァ書房、2024年、361−381頁)
・添谷芳秀「戦後日本外交の構図」(『法學研究』第65巻第2号、1992年、79−101頁)
・添谷芳秀『日本外交と中国 1945-1972』(慶應通信、1995年)
・添谷芳秀「吉田路線と吉田ドクトリン―序に代えて―」(『国際政治』第151号、2008年、1−17頁)
・添谷芳秀「中庸としての『九条・安保体制』」(添谷芳秀編著『秩序変動と日本外交―拡大と収縮の七〇年―』慶應義塾大学出版会、2016年、3−28頁)
・添谷芳秀『日本の外交―「戦後」を読みとく―』(筑摩書房、2017年)
・豊下楢彦『安保条約の成立―吉田外交と天皇外交―』(岩波書店、1996年)
・中北浩爾『経済復興と戦後政治―日本社会党1945-1951年―』(東京大学出版会、1998年)
・中北浩爾『一九五五年体制の成立』(東京大学出版会、2002年)
・中西寛「〝吉田ドクトリン〟の形成と変容―政治における『認識と当為』との関連において―」(『法學論叢』第152巻第5・6合併号、2003年、276−314頁)
・濵砂孝弘『安保改定と政党政治―岸信介と「独立の完成」―』(吉川弘文館、2024年)
・保城広至「『対米協調』/『対米自主』外交論再考」(『レヴァイアサン』第40号、2007年、234−254頁)
・保城広至「『吉田ドクトリン』論再考」(松浦正孝編著『「戦後日本」とは何だったのか―時期・境界・物語の政治経済史―』ミネルヴァ書房、2024年、299-318頁)
・三浦陽一『吉田茂とサンフランシスコ講和 上下巻』(大月書店、1996年)
・宮城大蔵「サンフランシスコ講和と吉田路線の選択」(『国際問題』第638号、2015年、6−15頁)
・宮澤喜一『東京―ワシントンの密談〔文庫版〕』(中央公論新社、1999年)
・宮澤喜一『社会党との対話―ニューライトの考え方―』(講談社、1965年)
・吉田茂『回想十年 上中下巻〔文庫版〕』(中央公論新社、2014-2015年)
・吉田茂『大磯随想・世界と日本〔文庫版〕』(中央公論新社、2015年)