日本が戦後、再軍備に積極的であれば、米国による27年にわたる沖縄占領統治は避けられたかもしれない。沖縄返還に関する先行研究は、米国による沖縄統治について定めたサンフランシスコ平和条約(以下、平和条約)第三条の締結後、日米両政府に日本の防衛力増強による沖縄返還の見通しが存在したと指摘してきた。
沖縄返還の古典的研究において、河野は、平和条約の生みの親であるジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles)国務長官が沖縄返還と日本の防衛力増強とを関連させる発言を外務省に繰り返していたと指摘する。「その結果、日本国内に防衛力増強による沖縄返還の可能性を考慮する傾向が生じた」という
[i]。池宮城は、河野の研究以後に公開された日米両政府の機密指定解除文書を用い、日本が防衛力増強により沖縄防衛の責任を担うことができれば、それだけ沖縄の米軍基地が縮小され、施政権返還も可能になる論理が成立していたと主張する
[ii]。
米国政府が日本の防衛力増強が沖縄返還の条件だと伝達した会議として、先行研究が注目するのが、1953年8月13日の新木栄吉駐米日本大使とダレス国務長官との会談(以下、新木・ダレス会談)である
[iii]。まず、日本側議事録に先立って公開され、先行研究で引用されてきた米側議事録を確認しよう
[iv]。
米側議事録によれば、この会談は午後4時から始まり、会議には新木とダレスに加え、後宮虎郎一等書記官とケネス・ヤング(Keneth T. Young, Jr)国務省極東局北東アジア課課長が参加した。この議事録を作成したのはヤングである。議題は奄美返還と日本の経済問題、そして戦犯問題の3点だった。
新木が会議の冒頭で、米国政府による奄美返還の表明について謝意を示した後、奄美群島とともに平和条約第三条によって米国統治下に置かれていた、沖縄や小笠原諸島の返還も希望する旨を述べたのに対し、ダレスは以下のように発言した。
「国務長官は大使に、そして、大使を通じて日本政府に、沖縄と小笠原の即時返還を求めないよう警告した。そうした要求は奄美群島返還にすら反対した人々が抱いていた疑念をまさに裏付けるからである。」
次に、日本の防衛力増強と米国による沖縄統治の関係について言及し、日本の安全保障問題に対する消極性を以下のように批判する。
「日本政府や日本国民が沖縄や小笠原諸島などの安全保障にほとんど関心を示さず、わずかな努力しか払っていない限り、米国政府が沖縄や小笠原諸島などの戦略的に重要な島々の支配権を放棄することは不可能である。現時点で、米国がこれらの島々を『権力の空白』に陥らせるのは間違っているだろう。」
ダレスは続けて、「自衛力の増強やこの地域での安全保障への貢献について関心が薄く、努力が払われてないことに失望を表明した」。ダレスはまた、日本人は自国の防衛責任を米国に担わせて満足していると非難した。新木はダレスの批判に対し、日本が戦後まもなく、防衛力増強のための経済的基盤の弱さについて言及したが、ダレスは以下のように反論した。
「日本政府は防衛のために経済を強化することにドル資金の大部分を使用していない。一万田日銀総裁と議論した時、日本の経済問題に関する覚書を受け取った。日本は特需から得た利益を無駄にする余裕がない時期に、贅沢品にドルを消費した。日本政府は贅沢品の輸入を制限し、必要不可欠な用途にドルを回し向けるべきである。」
このようにダレスは、日本は朝鮮戦争の特需で経済的余裕が生まれたにも関わらず、防衛力増強を怠ったと批判し、沖縄や小笠原の防衛ができない日本にそれら諸島の返還は不可能であると指摘した。米側議事録からは日本の防衛力増強が、沖縄・小笠原返還や日本の経済問題に通底するテーマだったことも伺える。
次に、日本側議事録を確認していこう
[v]。米側議事録において、ダレスが奄美返還の直後に沖縄・小笠原の返還を迫るべきではないと述べた箇所は以下のように記録されている。
「沖縄、小笠原等も将来配慮してくれとのことだが、(中略)本件決定に当たつては、国防省は此の際急いで返還することには終始反対して来たが、その理由はこうした米側の措置が日本をして隴を得て蜀を望む結果となると云うことであつたが、国務省はこれを押えて今次の決定に持つて行つた次第である。それに今、日本側からそう云う希望の表明があると云うことは、国防省の考え方が正しかつたと云うことになり、自分の立場が無いこととなるから、此の問題は今は触れぬこととしたい。」
中国故事に由来する「隴を得て蜀を望む」という表現で、奄美返還により沖縄・小笠原返還を日本が主張するかもしれないという国防省の懸念が示されていることがわかる。防衛力増強と沖縄・小笠原返還との関係は、以下のような記述になっている。
「これに関連するが、桑港会議の際、吉田総理は、将来日本があの地域の防衛を引受ける態勢が出来た時は、今米国が押えて居る戦略的地点を返還して呉れと云つた
[vi]が、今度日本に行つて見て、この地域の防衛態勢は、米国の考えた程進んで居らず、あゝ云う状態では沖縄、小笠原等の戦略的地点の返還は余り問題にならないのではなかろうか。」
「余り問題にならないのではなかろうか」という表現からは、日本の沖縄・小笠原返還の要求に対し、ダレスの突き放した姿勢が伺える。だが、米側議事録に残された日本の防衛力増強へのダレスの強い失望や不満は記述されていない。
また、経済問題についても防衛力増強問題とは切り離されたかのような記述になっている。
「東京では吉田総理、岡崎外相、一万田日銀総裁に会つたが、日本の経済統制は憂慮に耐えない。折角朝鮮事変で思わぬドル収入があつたのに、これを不要不急の贅沢品の輸入等に消費し尽さんとしている。恐らくニユーヨークを除いたら東京は世界で最も贅沢品の潤沢な都市であろう。為替制限等の措置をとりながら一向に実効が上がつていないのではないかと云う感がした。」
このように、日米の議事録を対照させると、米側議事録では防衛力増強が沖縄・小笠原返還問題や経済問題を貫くテーマとして扱われていたが、日本側ではそのような書き振りにはなっていないことがわかる。また、米側議事録では日本の防衛力増強に対するダレスの強烈な不満や、防衛力増強なくして沖縄や小笠原の返還は不可能であるという発言が逐語的に述べられたのに対し、日本側会議録では「余り問題にならないのではなかろうか」と一文に要約されるにとどまる。この相違は、奄美返還直後の沖縄・小笠原返還の要求が国防省の疑念を膨らませるというダレスの発言を、「隴を得て蜀を望む」と日本側議事録がそのニュアンスを正しく記録していたこととは対照的である。
なお、外務省は新木・ダレス会談以後、沖縄・小笠原返還問題の経緯をまとめた文書を作成する際に、この会談の内容に言及している。たとえば、アジア局第五課が作成した1955年3月16日付の「平和条約第三条地域に関する諸懸案と対米折衝経緯について」と題する文書では、日本の沖縄・小笠原返還要求が「隴を得て蜀を望む」と見なされかねない問題に言及されているが、防衛力増強と沖縄・小笠原返還との関係は触れられていない
[vii]。同年8月下旬に開催された重光葵外相とダレスとの会談に先立って作成された8月6日付の文書でも、やはり防衛力増強と沖縄・小笠原返還に関する箇所は欠落している
[viii]。
沖縄返還の条件とも言えるダレスの指摘が日本側議事録で要約にとどまり、以後の記録から欠落するのは、防衛力増強が沖縄返還につながるという見通しを外務省が抱けなかったからではないだろうか。
まず、この会談が設定されるきっかけとなった、1953年8月8日の奄美返還発表に際して、ダレスは「極東における国際的緊張状態が現存する間」、奄美群島を除く沖縄などの島々への支配が必要であると述べた。この声明は、脅威と緊張を黒雲にたとえ、黒雲が消え去り極東に青空が広がるまで沖縄を保持し続けるという比喩で、「ブルー・スカイ・ポジション」として知られる。「ブルー・スカイ・ポジション」は、以後の日米共同声明などで繰り返し表明され米国の沖縄統治の基本方針とみなされていく
[ix]。
実は、外務省はダレスによる「ブルー・スカイ・ポジション」の表明以前から、米国のそうした見解を予期していた。外務省条約局が作成した1953年6月3日付の「南西諸島の日本復帰の方式」と題する文書には、「現在の冷戦が継続する限り」、米国が平和条約第三条で認められた沖縄に対する施政権を放棄することは困難だろうと記述されている。その二ヶ月後に外務省はダレスによる「ブルー・スカイ・ポジション」の表明を受け、米国の沖縄統治は冷戦という国際環境によって決まるという考えをより強化したと思われる。そのため、防衛力増強に関するダレスの言及を沖縄返還と結び付けにくくしていたのではないだろうか。
また、ダレスをはじめ、米国政府は平和条約の締結以前から防衛力増強の圧力をかけていたが、ジョン・ムーア・アリソン(John Moore Allison)駐日大使は防衛力増強と沖縄返還問題を関連させるべきではないと主張していた
[x]。防衛力増強は憲法九条などとの関わりから既に日本国内で反発を招く問題であったし、それが沖縄返還問題とリンクすれば反米感情を一挙に高めかねなかったからである。アリソンは日本の政策当局者に防衛力増強の重要性を伝達していたが、沖縄返還と関連させることはリークにより公になる可能性から極めて慎重になっていただろう。駐日大使館との防衛力増強をめぐる日常的なやり取りから、外務省が防衛力増強と沖縄返還を結びつけるダレスの見解を、一個人の意見として扱った可能性もある。
さらに、外務省は沖縄・小笠原の防衛も可能になる防衛力増強を、池宮城が言うように「後世の課題」とみなしていたこともあったのだろう。奄美返還と並行した防衛力増強に関する日米交渉で、米側は日本本土防衛の最小限度として陸上兵力32万5千人を根幹とする防衛力増強案を提示したところ、日本側は経済的制約から18万人を主張して譲らなかった
[xi]。吉田首相の軍事アドバイザーだった辰巳栄一元陸軍中将は、32万5千人という兵力数について、北海道から九州まで配備し、「本土防衛という考えに立てばそれはむしろ当然の数字」と認めていた
[xii]。米国が要求する本土防衛に必要な地上兵力すら確保できないのに、沖縄を含む南西諸島や小笠原諸島の島々、そして、その広大な周辺空域及び海域を守ることができると米側を納得させることは取り得る選択肢ではなかった。そうした日本の防衛力の現状も、ダレスの発言を真剣に受け止めることを難しくしていたと思われる。
以上のように、新木・ダレス会談時には、防衛力増強による沖縄返還を見通すことを困難にする外務省の認識や日本の防衛力の限界があった。先行研究が指摘するように、ダレスが同会談で日本の防衛力増強が沖縄返還の前提となると示唆していたことは間違いないだろう。事実、ダレスはこの会談以降も、両者を関連づける考えを抱き続けていた
[xiii]。ただし、それが米国政府の見解として日本政府に確かに伝わっていたかについては再考の余地があるように思われる。日米両政府が残した新木・ダレス会談議事録は、日本の防衛力増強と沖縄・小笠原返還をめぐる日米両国のすれ違いを象徴する記録と言えるのではないだろうか。
日米両国の会談録は
こちら[i]河野康子『沖縄返還をめぐる政治と外交—日米関係史の文脈』(東京大学出版会、1994年)95頁。
[ii]池宮城陽子『沖縄米軍基地と日米安保—基地固定化の起源 1945–1953』(東京大学出版会、2018年)16頁。
[iii]以下の先行研究においても、同会談が取り上げられている。宮里政玄『日米関係と沖縄—1945–1972』(岩波書店、2000年)85頁、ロバート・D・エルドリッヂ『奄美返還と日米関係—戦後アメリカの奄美・沖縄占領とアジア戦略』(南方新社、2003年)193–195頁、野添文彬『沖縄米軍基地全史』(吉川弘文館、2020年)62–64頁。
[iv] U.S. Department of State,
Foreign Relations of the United States(以下、FRUSと略す。): 1952–1954, China and Japan Volume XIV, Part 2, (GPO, 1985), pp. 1481–1484.
[v]外務省編『日本外交文書 沖縄返還 第一巻(第三次吉田内閣期から池田内閣期まで)』(六一書房、2023年)64–67頁。
[vi]吉田のサンフランシスコ平和会議での発言は「アジアの平和と安定がすみやかに確立され、これらの諸島が1日も早く日本の行政の下に戻ることを期待する」であるので、ダレスの回想は記憶違いではないかと思われる。池宮城は、ダレスが回想したような吉田の発言は見当たらないと述べる。池宮城『沖縄米軍基地と日米安保』195頁。
[vii]同文書における記述は以下のとおり。「政府としても、もとより奄美群島の返還をもつて満足するものではなく、1953年8月13日新木大使がダレス国務長官と会見して奄美群島返還に関する陛下の思召を伝達した際、沖縄、小笠原等の問題の解決に対しても将来配慮ありたい旨を申し添えた。右に対しダレス長官は、奄美群島は戦略価値が比較的少いと判定したから返還をした旨及び国防省は同群島を急いで返還することは日本をして隴を得て蜀を望む結果とならしめるとして終始反対してきた旨を語つた。」外務省編『日本外交文書 沖縄返還 第一巻(第三次吉田内閣期から池田内閣期まで)』(六一書房、2023年)105頁。
[viii]同前、85頁。
[ix]河野『沖縄返還をめぐる政治と外交』94頁。
[x] FRUS, p. 1478.
[xi]坂元一哉『日米同盟の絆—安保条約と相互性の模索』(有斐閣、2000年)第二章。
[xii]大嶽秀夫編・解説『戦後日本防衛問題資料集 第一巻—非軍事化から再軍備へ』(三一書房、1992年)512–513頁。
[xiii]FRUS, pp. 1572–1573.