はじめに
1972年5月15日、国際政治学者・若泉敬は、自身が佐藤栄作総理大臣の「密使」として心血を注いだ沖縄の祖国復帰が実現したことを見届けると、翌16日には機上の人となった。羽田空港13時20分発、アエロフロート576便。表向きは奉職する京都産業大学の荒木俊馬総長のお供であったが、それだけで済ませるつもりはなかったに違いない。数日前に若泉から報告を受けた佐藤が「帰国したら案外面白い事があるかも知れない」との感を受けたように、日本の戦略の、次の展開を考えていたのである。
中国核武装問題にどのように対応するべきかを考察した結果、「核軍縮平和外交」を提唱したところから、思いがけず「密使」の道を歩むことになった若泉にとって、日本の「再独立の完成」と「日米関係の再構築」を果たしていく不可欠な要素が沖縄返還であったのだから、沖縄の祖国復帰が実現すればそれで終わりというわけにはいかなかった。沖縄が置かれている現状を改善していくためにも、早々に、戦略は次の段階に推し進めるべきだったのである。その柱となったのが、すぐのちに彼が「全方位平和外交」と呼ぶものであった。
沖縄返還の実現により、戦後日本にとって致命的に重要なアメリカとの友好関係は一段階先へと進めることができた。この後も彼は日米関係の発展・深化のために活動を続けるのだが、そのためにも別の局面で日本外交の地平を拡げておくことが考えられたのである。この課題は若泉だけのものではない。ここでは詳述の余裕がないが、日米関係の変化は国際秩序の変化を反映したから、高坂正堯をはじめとして1970年代にはいくつも類似のアイデアが見られ、問題関心は共有されていたと言える。
2026年は若泉敬の逝去から30年になる。月日は流れたが、日本が考えるべき戦略状況には通じるものがある。本稿では、彼が構想したこの「全方位平和外交」の意味について、その論跡と足跡をたどり、再考したい。
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