2023年3月31日、「ロシア連邦の対外政策のコンセプト(以下、「2023年対外政策コンセプト」)」が、大統領令[1]により承認された。ウプサラ大学ロシア・ユーラシア研究所のシニア・フェローであるイーゴリ・トルバコフによれば、同文書は「ロシアの文明的固有性を国家の最高公式レベルで初めて宣言したもの[2]」と位置づけられるという。実際、第1章「総則」第4項には、ロシアを固有の「国家―文明(государство-цивилизация)」として規定し、「ルースキー・ミール(русский мир)」という文化・文明的共同体(культурно-цивилизационная общность)を構成するロシア民族と諸民族の結合を強調する記述がみられる。
 このような国家観の転換について、トルバコフは、ロシアによるウクライナ侵攻とそれに対する西側諸国の対応を契機として、ロシアが急進的な「文明論的再定位」を遂げたと指摘する。さらに彼は、クレムリンによるウクライナへの民族主義的執着心に突き動かされた軍事行動それ自体が、ポスト帝国期ロシアにおける深刻なアイデンティティ危機の表出であると論じている。
 トルバコフによれば、ソ連解体から30年以上が経過した現在に至っても、ロシアは依然として複数の根本的問題を解決できていない。具体的には、①ロシアの政治的ネイションの境界はどこに引かれるのか、②ロシア人(Russians)[3]は民主的な政治体制を構築しうるのか、③ロシアは憲法上規定された連邦国家なのか、それとも準帝国的実体なのか、④ロシアの歴史的発展の究極的目的はいかなるものなのか、という点である。ロシア指導部は、「独自の文明」や「特別な道」といった観念を提示することで、「西側」は末期的な衰退過程にあり、もはや先行モデルたりえないと主張することで、こうした現実の問題を意図的に曖昧にしているという。
 もっとも、ロシアによるウクライナ侵攻および西側諸国の対応を、「文明論的再定位」の直接的な引き金とみなす見解については、筆者は賛同しない。他方で、同再定位を、ソ連解体後のロシアにおける国家建設、すなわち国民国家(nation-state)としての形成の困難と結びつけるトルバコフの問題意識は、現代ロシアのナショナル・アイデンティティを理解する上で重要な示唆を与えている。
 その後、2025年11月25日には、「2036年までのロシア連邦の国家民族政策の戦略(以下、「2025年国家民族政策戦略」)」が、大統領令[4]により承認された。
 第2章「ロシア連邦における民族間関係の現状」では、国家の民族政策が、ロシアを独自の「国家―文明」として捉える歴史的経験に基づくものであることが明記されるとともに、「ロシア国家(российское государство)の歴史的領域」における、国家を形成する民族(государствообразующий народ)としてのロシア民族(русский народ)[5]の統合的役割が強調されている。また、現代ロシア社会は、ロシア語およびロシア民族文化(русская культура)を基軸とする「共通の文化的(文明的)コード」によって結び付けられているとされる。なお、「ロシアの歴史的領域」が具体的にどの地域を指すのかは文書上明示されていないが、「2023年対外政策コンセプト」において「ルースキー・ミール」が文化・文明的共同体として定義されていることを踏まえると、少なくともウクライナやベラルーシを含む地域が念頭に置かれている可能性は否定できない[6]
 注目すべきは、同戦略では、「国家を形成する民族」がロシア民族であることが明確に言語化されている点である。従来の「2012年国家民族政策戦略[7]」では、連邦憲法との関係を考慮し、「諸民族の結合体として形成されたロシア国家の国家構造を形成する核心」といった比較的抑制的な表現が用いられていた。また、2020年の連邦憲法修正により「国家を形成する民族」という用語自体は連邦憲法68条1項に導入されたが、そこではそれがロシア民族であることは明示されていなかった[8]。これに対し、2025年国家民族政策戦略では、その主体がロシア民族であることが明確に示されており、この点は、近年のロシアの国家観および国民統合理念の変容を考察する上で、重要な示唆を与えるものといえよう。
 本稿は、以上の問題意識を踏まえ、ロシアが近年公式に喧伝している国家観である「国家―文明」概念を対象として、その思想的背景ならびに国民統合理念および政策的含意との関係を明らかにすることを目的とする、一連の研究の序論に位置づけられる。



※ 本研究は、JSPS科研費25K21465の助成を受けたものである。
※ 本稿は、著者が2024年1月に神戸大学へ提出した博士論文「ロシアにおける『国民』形成と『言語権』保障」の一部を抜粋・改稿し、大幅な加筆・修正を行ったものである。


[1]Указ Президента РФ от 31.03.2023 N 229 "Об утверждении Концепции внешней политики Российской Федерации"
[2]Igor Torbakov, The “Special Path” of Russian State-Civilization: The Genealogy of Vladimir Putin’s Geopolitical Metaphor, The Russia Program at GW Online Papers, no. 9 (October 2023), George Washington University. https://therussiaprogram.org/onlinepaper_9. Accessed February 13, 2026.
[3]ロシア民族(русский)を指すのか、あるいはロシア国民(Россиянин)なのか、文脈上はっきりしないため、あえて「ロシア人」と訳出した。
[4]Указ Президента РФ от 25.11.2025 N 858 "О Стратегии государственной национальной политики Российской Федерации на период до 2036 года"
[5]「ルースキー(русский)」概念の多義性については、本稿2-6.で触れる。
[6]これは、2012年以降の国籍政策の変遷に如実に現れている。拙稿「ロシアによる『在外同胞』支援とウクライナ侵攻」『社会体制と法』20号(2023年)20-40頁を参照。
[7]Указ Президента РФ от 19.12.2012 N 1666 "О Стратегии государственной национальной политики Российской Федерации на период до 2025 года"
[8]修正前の連邦憲法68条1項では「ロシア連邦全土における国家語は、ロシア語である」と規定され、ロシア語の連邦国家語としての地位が簡潔に表現されるに留まっていた。しかし、修正後の連邦憲法68条1項では「ロシア連邦全土における国家語は、ロシア連邦の同権の多民族的同盟(многонациональный союз равноправных народов Российской Федерации)に加入する、国家を形成する民族の言語(язык государствообразующего народа)であるロシア語である」と定められており、ロシア語は「連邦国家語」に加えて、「国家を形成する民族の言語」としても規定されている。


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