はじめに
2025年11月14日、高市早苗首相が与党内で非核三原則の見直しの議論を開始させる検討に入ったことが報じられた 。「持たず」「作らず」「持ち込ませず」の三原則のうち、高市首相が念頭においているのは「持ち込ませず」であると言われている。その後、内閣総理大臣補佐官が核兵器の保有を肯定したことも報じられ、高市政権発足後、核兵器をめぐる問題に対する関心が高まった。
核兵器の持ち込みの問題は、米ソ冷戦時代から国会で大きな論点になってきた。このうち重要な論点の一つが、1950年代から60年代にかけてアメリカが沖縄に持ち込んでいた核兵器の存廃問題である。このことについて筆者は別稿で、1967年に外務省と佐藤栄作首相の諮問機関である沖縄問題等懇談会がそれぞれ行った、沖縄の核兵器の存廃問題に関する検討内容を取り上げ、とくに、外務省の東郷文彦北米局長と沖縄問題等懇談会委員の久住忠男の考えを比較検討した 。
これらの作業のなかで筆者は、重要人物である東郷と久住の核兵器に対する考えや認識の変化を、対象時期を広げて明らかにする必要性を認識した。本稿では、このうち先行研究においてまだ明らかでない久住忠男の考えに焦点をあてて、久住が沖縄の核兵器ひいては核兵器の「持ち込ませず」の問題についてどのように認識していたのか、久住が関与した3つの研究発表の場面に着目しながら明らかにしたい。
一つ目は、戦後20年の節目の年にあたる1965年4月12日に、久住が沖縄問題解決促進協議会という会合で研究発表を行ったときの記録である。二つ目は、1967年9月12日付で久住が沖縄問題等懇談会委員としてまとめた「沖繩返還と基地の取扱について」という報告である。そして三つ目は、1969年3月8日に久住が沖縄基地問題研究会座長として佐藤栄作首相に渡した報告書「沖繩基地問題研究会・報告」である。
佐藤首相が沖縄からの核兵器の撤去を求める考えを公にしたのは、1969年3月10日の参議院予算委員会の場であったと考えるのが通説である。このことについて複数の信頼ある先行研究は、2日前の3月8日に沖縄基地問題研究会が佐藤に提出した報告書との関係性を指摘している 。このことからすれば、久住の考えの推移を明らかにする作業は、当時の首相が沖縄からの核兵器の撤去を方針とするに至ったプロセスの一側面を解明する意義があるといえよう。
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