コメンタリー

2025 / 03 / 30 (日)

久場川傳「日本外交史における湾岸戦争研究の現在」(ROLES Commentary No. 47)

はじめに
1990年8月2日、サダム・フセイン(Saddam Hussein)大統領の率いるイラクが隣国クウェートに侵攻し、湾岸危機・湾岸戦争[1]が勃発した。
 
米ソ冷戦の終結という変動期のさなかに行われたこの侵攻は、東西両陣営の垣根を越え、国際社会を団結させた。冷戦時代、たがいに拒否権を行使しあっていた米ソ両国がこの問題では手を取り合い、国連安保理でイラクに対する非難決議を次々と採決していった。特に、1990年11月に決議678号が採択されたことは象徴的な出来事であった。この決議により、国連加盟国によるイラクへの武力行使が容認され、国連による積極的な集団安全保障体制の維持という、冷戦期では考えられなかった事態が表出されたのである。「ポスト冷戦」に向け、国際政治は新たなステージに入ったとみられた。

しかしながら、危機に対して積極的に行動した国際社会とは対照的に、日本の動きには躓きが生じた。湾岸危機が発生した当初こそ、日本は、安保理の対イラク非難決議に先駆けてクウェート亡命政府への支持を表明し、イラクに対して包括的な経済制裁を課すなど、迅速に対応した。しかし、その後は初動の素早さとは打って変わり、多国籍軍への支援策のとりまとめに時間をかけ、その支援策もその実態に即した評価が得られなかった。「Too Little, Too Late」[2]と評されるゆえんである。

湾岸危機・湾岸戦争に際し適切な手立てを打てなかった日本外交が国際社会からの非難を浴びたことで、政府当局者を中心に衝撃が広がった。その衝撃の深さから数多くの研究者が関心を寄せ、同時代から現在に至るまで多様な研究が蓄積されている。

本稿は、日本外交にとって重要な意味をもつ湾岸危機・湾岸戦争に関する研究が、この30年の間、どのように進展したかを振り返りつつ、その現状と課題を明らかにしようとする試みである。この作業を通じて、湾岸危機・湾岸戦争がもたらした「衝撃」はどのようなものであったかを改めて考える手がかかりとしたい。

国内政治を分析した「第1世代」
前述したように、湾岸危機・湾岸戦争が日本にもたらした衝撃は大きく、当時から優れた分析・評論が発表されてきた。早くも、湾岸危機から一年後の1991年8月に『国際問題』は、湾岸戦争をテーマにした特集号を組んでいる。なかでも注目すべきは、北岡伸一[3]や水藤晉[4]による論文である。前者は自民党、後者は社会党と公明党に着目し、湾岸危機・湾岸戦争を通して、日本の国内政局がどのように変動したのかを明らかにしている。両論文とも、1991年当時に公開された情報をもとに書かれたものだが、現在と比較しても遜色のない研究水準にある。なお、同年に北岡は、『日米関係のリアリズム』(中央公論社、1991年)を著し、湾岸戦争を明治以降の日本外交の文脈から論じるなど長期的な視点による分析を示した。その視野の広さ、分析の鋭さから、同書は時代を表す一冊と評価できるだろう。

新聞社による調査報道も盛んになされた。湾岸危機・湾岸戦争期の政局を中心に、政治レベルの動きに関する報道が多数出版されたが、新聞各社の調査報道の中で特にその内実を詳しく記したものとして、注目すべきが朝日新聞社の「湾岸戦争」取材班『湾岸戦争と日本―問われる日本の危機管理』(朝日新聞出版、1991年)朝日新聞外報部『ドキュメント湾岸戦争二百十一日』朝日新聞出版、1991年の二冊である。

これらの、日本の国内政治の動向に着目した、同時代的な評論・研究や調査報道は、湾岸危機・湾岸戦争研究における「第1世代」と位置づけることができる。
 
数多くのインタビュー記録を収集・発掘した「第1.5世代」
戦争が終わり、情勢が落ち着き始めると、ジャーナリズムから貴重な証言記録が発掘され始めた。当時、NHKのワシントン支局特派員だった手嶋龍一の『一九九一年日本の敗北』(新潮社、1993年。2006年に『外交敗戦―130億ドルは砂に消えた』新潮文庫として改題出版)と朝日新聞社の編集委員だった国正武重の『湾岸戦争という転回点―動顛する日本政治』(岩波書店、1999年)の2冊は、関係者に対する多数の聞き取りをもとに構成されており、2025年現在においても史料的価値の高く、多く引用される著作である。両書は、一次資料を用いた「第2世代」以降とは区別されるが、「第1世代」とは異なり、豊富なインタビュー記録を用いている点で、湾岸戦争研究の「第1.5世代」と呼びうるものである。

この「第1世代」と「第1.5世代」に共通しているのは、受動的な日本外交に対する批判的な視線である。この時期に発表された著作や研究による、湾岸危機・湾岸戦争への対応に失敗した日本という図式は、手嶋の表現を借りるならば、「外交敗戦」史観ともいうべきものを構築し、現在まで続く日本外交のイメージをつくりあげた。
 
実証研究の「第2世代」
2000年代から2010年代にかけて本格的な実証研究が展開されるようになる。その契機となったのが、自衛隊海外派遣研究の進展である。村上友章「国連平和維持活動と戦後日本外交 1946-1993」(神戸大学提出博士論文、2004年)庄司貴由『自衛隊海外派遣と日本外交―冷戦後における人的貢献の模索』(日本経済評論社、2015年)加藤博章『自衛隊海外派遣の起源』(勁草書房、2020年)が代表的だが[5]、これらの研究は、情報公開制度を活用し、開示された政府内文書を多く用いている点で、それ以前とは異なる特色を持つ。一次資料を用いた実証研究の発展は、自衛隊海外派遣をめぐる日本外交の解像度を上げるなど、戦後日本外交史研究に重要な貢献を成した[6]

同時期に、オーラル・ヒストリー面でも進展があった。ジェフリー・ホーナンは、多数の政治家・官僚への聞き取りに基づき、湾岸戦争とイラク戦争における自衛隊派遣の政策決定過程を比較・分析した“Learning How To Sweat: Explaining The Dispatch Of Japan's Self-Defense Forces In The Gulf War And Iraq War”, unpublished PhD Thesis (The George Washington University, 2009)を刊行している。

自衛隊海外派遣研究を軸に、一次史料やインタビューを用いて当時の政策過程を明らかにしたこれらの研究は、湾岸戦争研究における「第2世代」に位置づけられる。

湾岸危機・湾岸戦争研究の潮流は、評論・報道から、自衛隊海外派遣の実証へと移り変わってきたが、近年では、新しい視角による研究も発展しつつある。本稿では最新の研究を、①「言説・思想への影響」②「二国間関係・多国間関係」③「新たなアクターへの広がり」の三つに分類し、整理してみたい。

まず、①「言説・思想への影響」だが、湾岸戦争がもたらした日本の言説・思想への影響を考察したものとしては、大山貴稔「自衛隊派遣をめぐる政治転換1990年8月〜91年4月―『国際貢献』概念の流布を糸口に」『筑波法政』第69号(2017年)坂本大地「湾岸のトラウマとは何か」(防衛大学校提出修士論文、2009年)、田所昌幸「日本外交にとっての第一次湾岸戦争」『令和三年度戦争史国際フォーラム報告書』(防衛研究所、2019年)の三つがあげられる。

大山論文は、1990年10月、国会に提出され廃案に終わった国連平和協力法案から、湾岸戦争後の1991年4月に実施された掃海艇派遣に至るまでの時期を分析対象としている。「国際貢献」という、当時登場した新しい概念に着目しながら、世論と政治の相互作用を丹念に調査し、掃海艇派遣が実現した要因について考察している。

坂本論文は、湾岸戦争が日本外交にもたらした影響を表す言葉として広く語られている「湾岸のトラウマ」という言説概念に着目し、その浸透過程を分析した。坂本によれば、「湾岸のトラウマ」という表現は2000年に入るまで広く使われることはなかったが、2001年9月11日の同時多発テロが起きて以降、国際的な人的貢献の必要性を強調するため意識的に多用されるようになったという。

田所論文は、湾岸戦争が日本の政治・思想空間にもたらした影響を分析した。同論文は、戦争が日本国内の左右両派が持つジレンマを顕在化させたと指摘するなど、非常に示唆に富む分析を行なっている。
 
次に②の「二国間関係・多国間関係」の視点では、日米二国間関係の文脈から分析した、村上友章「湾岸戦争と戦後日本の挫折」簑原俊洋編『「戦争」で読む日米関係100年―日露戦争から対テロ戦争まで』(朝日新聞出版、2012年)、日本の貢献に対する他国の評価を分析した、尾関航也「米国から見た日本の多国籍軍事作戦支援:何が評価を分けるのか」(政策研究大学院大学提出博士論文、2015年)や、恩田宗「湾岸危機の際の日本の貢献―その国際的評価について考える―」『霞関会会報』(2008年3月号)の三つが注目すべき研究として考えられる。

村上論文は、湾岸戦争を日米双方にとっての「原体験」として捉え、この「原体験」が、その後の日米関係の展開に与えた影響について検討を加えている。尾関論文は日本の貢献策を米国からの評価を主軸に分析し、恩田は、湾岸危機・湾岸戦争が起きた当時、駐サウジ・アラビア大使をつとめた経験から、貢献策が国際的にどのように評価されたのかの考察を論文としてまとめている。恩田論文は、研究上の意義のみならず、当事者による記録・資料としての価値も高い。
 
③の「新たなアクターへの広がり」を示した研究としては、加藤博章「外交・安全保障政策における内閣法制局の役割―湾岸危機勃発後の支援策を中心に―」『防衛学研究』第67号(2022年9月)Satoru Nakamura, “Nonmilitary Contribution by Japan in the Gulf Crisis 1990–1991: Funding, Intelligence Gathering, Releasing Hostages, and Minesweeping”, Satoru Nakamura and Steven Wright ed., Japan and the Middle East: Foreign Policies and Interdependence, Palgrave Macmillan, 2023、この2つが代表的な論文となる。

加藤論文は、国連平和協力法案と掃海艇派遣、国際平和協力法(PKO法)における内閣法制局の役割に着目している。政策決定過程のなかで、なぜ内閣法制局の存在感が高まったのかについて分析し、湾岸戦争研究においてそれまで空白となっていた内閣法制局の関与の実態を明らかにした。

中村論文は、湾岸危機のさなかに行われたアントニオ猪木参議院議員のイラク訪問の影響を分析した。湾岸危機時、イラクは在地の日本人を人質に取り、猪木議員はその解放に向けて尽力したことで知られている。同論文は、猪木議員の役割・影響について考察を行い、政府外アクターによるスポーツを通じた働きかけの存在・役割を指摘した。これは、従来、あまり顧みられてこなかったアクターの働きを明らかにした点で、湾岸危機研究のみならず、日本外交史研究にとっても意義深い論文として評価できる。   

これら、新しい分析視角を取り入れた研究は、自衛隊海外派遣の実証研究である「第2世代」と並行して展開された点を踏まえると、「もうひとつの第2世代」 と呼ぶことができる。
 
課題と展望
以上、やや駆け足となったが、湾岸危機・湾岸戦争研究のこれまでの蓄積について概観してきた。最後に、これまでの研究蓄積を踏まえた上で見えてくる今後の課題について、若干の指摘をしたい。
 
まず、上述したように政府文書を用いた精緻な実証研究が積み上げられる一方で、これら「第2世代」の研究は、自衛隊海外派遣を主軸にしていることにより、湾岸戦争を自衛隊海外派遣までの「通過点」として位置付けられる傾向が強い。そのため、湾岸戦争をめぐる日本外交そのものの実証研究がなかなか進展しなかったことがあげられる。さらに、実証対象も、国連平和協力法案や自衛隊機派遣、掃海艇派遣などをめぐる国内政治に関心が集中しており、日本外交そのものの展開については等閑視される傾向にあった。
 
もっとも、上記のような問題は、肝心の外交文書の公開が進展しなかったため、致し方ない面がある。しかし、近年、公文書の30年公開ルールによって、日本の外交史料館所蔵の外交文書や、各国の政府文書が次々と公開されていき、冷戦終結期の国際関係史に関する史料環境は急速に改善されつつある。その影響で、湾岸戦争の前後にあたる、天安門事件やカンボジア和平などでは、優れた実証研究が蓄積されている[7]。註7で列挙した研究の中で、特に言及すべきが東郷雄太、村上友章、アンドレア・プレッセーロの三者による研究である。

東郷は、1989年6月4日に起こった天安門事件における日本外交を、翌月にフランスで行われたG7アルシュ・サミットにおける外交交渉を軸に分析を行っている。そこでは、人権弾圧に強硬な反対姿勢を示すヨーロッパ諸国と「中国の孤立化回避」を目指す日本との間で繰り広げられた多国間外交に注目し、「中国の孤立化回避」の方針が国際的な正統性を確保する過程を明らかにした。

また、カンボジア和平における日本外交を扱った村上やプレッセーロによる研究では、前者がカンボジア和平に取り組む日本外交を、国連という場で日本がどのような多国間外交を展開したのか、日本の国連外交と結びつけながら、その背景を含め明らかにした。後者のプレッセーロによる研究では、1970年代後半からカンボジア和平が成立する90年代前半までの広いタイム・スパンで日本の対カンボジア外交の実態を明らかにした。そこでは、カンボジア和平成立における、東南アジア諸国との多国間外交を通した日本の貢献を論じている。

これら上記の三者による研究は、日本外交を国際関係史の文脈のなかに置いている点に共通の特徴があるといえる。日本外交の動きを、二国間関係の文脈だけでなく、国際政治の動き全体の中に位置付けることにより、より立体的な日本外交像を浮かび上がらせた点で研究上の意義は大きい。
 
湾岸危機・湾岸戦争においても、上記のような「国際関係史のなかの日本外交」という視角を取り入れていく必要がある。例えば、日本は130億ドルの資金を提供するなど、多国籍軍に対し少なからぬ貢献をしている。この資金をめぐって日本はどのような外交をおこなったのか。湾岸危機・湾岸戦争への対応をめぐる国内政治の研究に比べ、日本と多国籍軍参加国との外交交渉を政府文書に基づき論じる研究はそれほど多くないのが実情である。実際に日本は、軍事情報の収集で困難に見舞われた際[8]、英国への財政拠出の見返りとして情報提供を受けるという、日英間の緊密な連携による外交を展開していた[9]。このような「国際関係史のなかの日本外交」の目線からの研究は、「第1世代」や「第1.5世代」によって論じられた「外交敗戦」史観とは異なる視座を提供してくれるであろう。各国での外交文書の公開が進展し、「国際関係史のなかの日本外交」研究が進むことで、私たちが今まで持ってきた湾岸危機・湾岸戦争期の日本外交イメージは修正されていくかもしれない。


[1]本稿では8月2日のイラクによるクウェート侵攻から、多国籍軍の武力行使に至る1991年1月17日までの期間を「湾岸危機」、多国籍軍による武力行使から戦闘終結に至るまでを「湾岸戦争」と呼ぶ。
[2] Washington to FCO, Telno 2275, 19 September 1990, FCO58/5391, The National Archives of the United Kingdom, Kew.
[3]北岡伸一「湾岸戦争と日本の外交」『国際問題』No.377、1991年8月、2-13頁。
[4]水藤晉「湾岸戦争と日本の野党」『国際問題』同号、14-27頁。
[5]その他、自衛隊海外派遣を含む人的貢献を扱ったものとして、特に国連平和協力法案に焦点を当てたものに、伊藤陽一「政策過程におけるマスコミの役割:「国連平和協力法案」廃案に関する事例研究」慶應義塾大学SFC研究所、1997年。中村登志哉「マスメディアと政策決定過程―「国連平和協力法案」の廃案」『県立長崎シーボルト大学国際情報学部紀要』第6号、2005年などがある。
[6]庄司、加藤はさらに研究対象時期を拡大し、南スーダンPKOに至る自衛隊海外派遣をめぐる政策過程を、情報開示文書等を用いて明らかにしている。加藤博章『自衛隊海外派遣』(筑摩書房、2023年)。庄司貴由『日本のPKO政策―葛藤と苦悩の60年』(筑摩書房、2024年)。
[7]例えば、若月秀和『冷戦の終焉と日本外交』千倉書房、2017年。同「冷戦終結過程での日本の対中外交」『国際政治』第212号、2024年3月、113-128頁。東郷雄太「天安門事件をめぐる日本外交」『神戸法学雑誌』第73巻3号、2023年12月、33-97頁。村上友章「国連安保理非常任理事国としての日本の対カンボジア外交」『国際政治』第212号、2024年3月、129-144頁。Andrea Pressello, Japan and the Shaping of Post-Vietnam War Southeast Asia: Japanese diplomacy and the Cambodian Conflict, 1978-1993, (Routledge, 2017) など。
[8]田中均『外交の力』日本経済新聞出版社、2009年、55頁。
[9]竹内行夫(中北浩爾、若槻秀和、蔵前勝久編)『外交証言録 高度成長期からポスト冷戦期の外交・安全保障―国際秩序の担い手への道』岩波書店、2022年、135頁。竹内行夫氏に対するインタビュー、2024年10月2日。