1.はじめに
今日、米海兵隊は沖縄に駐留する最大の米軍兵力となっており、沖縄における米軍基地面積の約7割を使用している。名護市辺野古への移設が問題となっている普天間飛行場も、海兵隊の基地であり、日本に駐留する米海兵隊兵力の9割近くが沖縄に配備されている
[1]。
このような沖縄における状況を踏まえて、沖縄米軍基地の歴史に関する研究は、米海兵隊が沖縄に駐留することになった経緯に焦点を当てることが多い。そこでは、米海兵隊が1950年代半ばに日本本土から沖縄に移駐し始めたこと、この海兵隊の駐留に伴って沖縄における米軍基地が大規模化したことが明らかにされてきた。そしてそのなかで、海兵隊の日本本土から沖縄への移駐の背景として必ずといってよいほど言及されるのが、1950年代における日本本土の反基地運動の高まりについてである
[2]。かつて筆者が、米国政府における海兵隊の沖縄移駐方針の決定過程について検討した際にも、先行研究と同様に日本本土の反基地運動の影響について指摘した
[3]。
しかし、沖縄に移駐することになった米海兵隊部隊が、具体的にどのような理由から日本本土において問題とされたのか、またその問題に日本政府がどのように対応していたのかを、日米関係の観点から検討した研究は管見の限り見当たらない。そこで本稿では、日本本土から沖縄に移駐した最初の米海兵隊部隊であった第三師団第九連隊に着目し(1955年7月に沖縄移駐)、同部隊の撤退が問題の焦点となった旧大阪市立大学(現・大阪公立大学)返還問題
[4]を事例として取り上げ、同問題への日本政府の対応を検討する。本稿は、日米両政府の外交文書に基づく実証研究に向けた予備的考察として、事実関係の整理を試みるものである。
以下で詳しく見るように、大阪市立大学をめぐっては、第二次世界大戦終戦後に米軍に接収されキャンプ堺となった同大学施設が、1952年4月に日本が主権を回復した後も日本側に返還されない状態が続いたため、大学関係者を中心に返還を求める動きが広がった。そのようななか、1954年6月から米海兵隊第三師団第九連隊がキャンプ堺に駐留し始めたことで、大学返還運動は活発化し、返還問題は参議院文部(文教)委員会の議題とされるに至った。日本政府は日米合同委員会において返還交渉を続け、最終的に1955年7月に第三師団第九連隊がキャンプ堺から沖縄に移駐したことで、大阪市立大学返還問題は解決した。
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[1]野添文彬『沖縄米軍基地全史』(吉川弘文館、2020年)10頁、沖縄県知事公室基地対策課『沖縄の米軍基地及び自衛隊基地(統計資料集)』令和5年10月、2-3頁。
[2]代表的なものとして、明田川融『沖縄米軍基地の歴史―非武の島、戦の島』(みすず書房、2008年)166-174頁;平良好利『戦後沖縄と米軍基地―「受容」と「拒絶」のはざまで、1945~1972年』(法政大学出版局、2012年)94-105頁;山本章子『米国と日米安保条約改定―沖縄・基地・同盟』(吉田書店、2017年)53-65頁;野添『沖縄米軍基地全史』65-80頁;林博史『米軍基地の歴史―世界ネットワークの形成と展開』(吉川弘文館、2012年)92-110頁。
[3]池宮城陽子「米海兵隊の沖縄移駐決定過程、1953~1955年」『法学研究』第92巻2号(2021年2月)369-397頁。
[4]本稿ではこれ以降、大阪市立大学返還問題と記す。