太平洋戦争(他の代表的な呼称として、アジア・太平洋戦争や大東亜戦争)の終結から80年が経過しても、日本降伏の「主因」について研究者の間にも十分な共通理解があるとは言いがたい。不一致の最大の理由は、日本の降伏決定が、広島・長崎への原爆投下(1945年8月6日と9日のそれぞれ午前)とソ連の対日参戦(9日未明)という、ほぼ同時に生じた「ダブル・ショック」の直後であったことである。連合国からの降伏勧告であるポツダム宣言(7月26日。以下、「宣言」)を一旦「黙殺」した後の、急転直下の方針転換だった。このため、どちらの衝撃が日本降伏の主因であったのかは、その特定が困難なのである。
そこに拍車をかけているのは、①終戦時に政府文書が大量に焼却されたことによる一次資料の不足と、②最終的には天皇の聖断で決着したとはいえ、多数の個人・組織が直接・間接に関与した合議型の降伏決定の複雑さである。後者に関しては、事実上の最高意思決定機関である最高戦争指導会議の正規構成員だけでも、内閣代表の首相・外相・陸相・海相と統帥部代表の陸軍参謀総長・海軍軍令部総長の計6名がいた。いわゆる六巨頭であり、他の関係閣僚や幹事役の官僚を同席させない彼らだけの会合は特に「構成員会議(会同)」と呼ばれた。ほかに、他の閣僚や宮中の天皇側近、首相経験者である重臣、陸海軍の次官・次長などの首脳陣や高級幕僚、外務省の幹部やソ連および中立国駐在の外交官、そして宮中と政府に和平を働きかけた元外相や元大使なども重要である。こうして、日本の終戦史研究の包括的で優れたレビュー論文である赤木・滝田(2016:3)が指摘するように、「今日に至っても、日本にとっての『終戦』が必ずしも明瞭な像を結ばない」のである。
もちろん、原爆投下とソ連参戦というわずか4日のうちに生じた2つ(あるいは2度の原爆投下とソ連参戦の3つ)の衝撃は、一体となって日本の政策決定者を突き動かしたと考えることもできる。実際に、概説的な説明ではそうした記述が通常だし、佐藤(2012:172)のような一次資料に基づく優れた研究書でも、そうした叙述を採用している場合がある。だが、日本の降伏決定を自らの主題とする研究者の多くは、それ以上の答えを求めた。そこには、歴史過程を少しでも精確に明らかにしたいという研究者(やジャーナリスト)が当然に持つ探究心に加えて、核兵器の実戦使用──しかも戦場ではなく都市への投下──という道義的・倫理的な問題が明らかに影響してきた。つまり、核爆弾という極めて非人道的な兵器による無差別攻撃は、すでに敗北が決定的であった日本の降伏に「(どこまで)必要だったのか」という問題意識である。
しかし、この当然の問題意識は、歴史過程の理解という実証研究の進展に必ずしも貢献してこなかった。最たる理由は、太平洋戦争後の冷戦を背景とするイデオロギー対立と結びついたためである。しかも、既述のように、広島への原爆投下の直後にはソ連が参戦し、その翌日に日本政府は「天皇の国家統治の大権」の維持のみを条件に、「宣言」受諾を米英中ソに申し入れたのである。このため、ソ連や社会主義にシンパシーを(あるいはアメリカや資本主義に反感を)持つ研究者(やジャーナリスト)を中心に、アメリカは日本の降伏を間近と知りながら(なぜなら、海上封鎖や戦略爆撃などでそうした状況に追い込んだのも、ソ連に参戦を慫慂したのもアメリカだからである)、すでに始まりつつあった冷戦でソ連よりも優位に立つことを主たる目的に、ソ連への牽制・脅迫として原爆を連続投下したという「原爆外交説」が、冷戦中──中でもアメリカの対外行動への非難が高まったヴェトナム戦争期以降に影響力を持ったのである。
もとより、現実世界における意図と結果は必ず一致するわけではない。アメリカの意図がたとえ原爆外交であったとしても、日本の降伏決定に原爆投下が決定的な影響を及ぼした可能性はあるし、その逆もしかりである。だが、これまでの研究を見ると、原爆外交説やそれに近い解釈を取ればソ連参戦を決定的かより重要とみなし、そうでなければ原爆投下を重視するのが常であった。特にその研究が、日本降伏の主因だけでなくアメリカによる原爆投下の意図・目的をあわせて対象とする場合、この点が顕著である。もちろん各研究者の意識としては、自らが先験的に持つイデオロギーや公正観といったバイアスに拘束されたためではなく、中立的な実証の結果にすぎないだろう。しかし、アメリカの意図と日本の意思決定とを解釈する際の「ネジレの少なさ」は、従来の議論の担い手たちが、何らかのバイアスから自由ではなかったことを疑う理由にはなる。つまり、少なくともどちらかは(あるいは両方ともに)「惚れ込んでしまったモノの見方に合うように、過去を解釈して」しまっている可能性が高い(トラクテンバーグ、2022:49)。
しかし、千々和(2025)(以下、『誰が』)は、その点で異色である。同書は、多くの資料実証的な国内外の研究と同じく、最初に原爆外交説を否定する(なお、そうした研究においても、日本の早期降伏に付随する効果、いわばボーナスとして、ソ連への牽制をハリー・S・トルーマン米大統領らアメリカの指導者は期待したとの解釈は支持されている)。原爆外交説のポスト冷戦版といえる長谷川毅の研究(Hasegawa, 2005; 長谷川、2023)に対しても、『誰が』は否定的である。しかし、原爆投下が日本の降伏決定に及ぼした効果については、極めて限定的に評価する。それは長谷川以上である。つまり『誰が』は──複数ありうる解釈中で「もっとも妥当である可能性を指摘する」推論だと断りながら──「〔広島と長崎に対する〕核使用には〔日本の早期降伏による主に連合国軍将兵の〕犠牲回避という目的があったものの、実際には日本の降伏をもたらすのにあまり効果がなかった(効果があったのはソ連の参戦だった)」と結論するのである(160~161頁。他に8、45、114~115頁。〔 〕内は中谷による補足、以下同じ)。ソ連要因を重視する研究でも、ここまで原爆要因を小さく評価する例は珍しく、「シングル・ショック説」と呼んでいいだろう。しかも、この明快で新奇性も強い主張は、従来の研究も依拠してきた歴史資料に基づいてなされている。ここに我々は──あくまでも結果的にではあるが──ようやくバイアスと切り離された、日本の降伏決定に関する歴史理解を手に入れたのだろうか。
本稿の目的は、このような重要性を持つ『誰が』の議論の妥当性を、それが依拠する歴史資料と、同書では直接引用はされていないが関連する歴史資料を用いて検証することである。その際には、すでに引いたトラクテンバーグ(2022:90-91)が強調する歴史研究の基本に則る。つまり、広島・長崎への原爆投下は「日本の降伏をもたらすのにあまり効果がなかった(効果があったのはソ連の参戦だった)」との同書全体の核心である主張が、①日本の降伏決定に関する同書中の個別具体的な叙述に「本当に支え」られているかどうかという「ロジック」の問題と、②こうした具体論を支えるために提示されている証拠資料は「著者が読者に説明している通りの根拠と言える」かどうかという「証拠の性質や妥当性」の問題を検証する。
結果、本稿は『誰が』の核心となる主張を支持できない。特に、②の「証拠の性質や妥当性」について、読者への証拠資料の提示の仕方と解釈、そしてその基盤となる歴史的文脈の理解に必ずしも首肯できないからである。その資料的な根拠は本論で具体的に示している。もちろん、複雑な問題の性質から「いくつかの仮説のなかで、史料や論理を用いて、相対的にもっとも確からしいものを提示することはできるだろうという」同書の立場(45頁)を踏まえた上での判断である。すなわち、同書の核心となる主張を支えるために、理路整然と展開されているように見える個別の記述は、利用可能な歴史資料の制約を考えても、十分に根拠づけられていないと本稿は結論する。
もとより、こうした検証結果が『誰が』の意義を否定するわけではない。特にアメリカによる原爆投下の意図・目的に関する歴史解釈と、日本の降伏決定に関する歴史解釈を切り離す明確な枠組を提示したことは重要である(特に第2章、中でも44頁の図)。こうして、少なくともイデオロギー的なバイアスからは距離を置いて、日本の降伏決定という複雑な歴史過程をより精確に理解するための新たな起点を同書は提供している。
くわえて、次節で示すように、『誰が』の議論は、アメリカによる原爆投下の意図を直接の対象とせずに、日本の降伏決定過程にもっぱら注目する、日本政治外交史の近年の研究成果を重要な基盤としている。このため、『誰が』の議論の検討は、その前提となっている歴史研究を批判的に再検討し、その意義と残された課題を確認する作業にもつながる。本稿でも、『誰が』の検証に付随する形で、こうした作業を試みる。
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