1.路上ライブと街頭演説
 JR水道橋駅東口方面から三田線水道橋駅へと向かって歩いていたとしよう。極まれに路上ライブに出くわすことがある。自作のCDを掲げて歌う者もいれば、こちらの大好きな誰かの名曲を借りて歌う者もいる。腕前はさまざまで、耳を攫われる夜もあるが、今夜はとびきりひどい。よりによって、こちらが何千回も聴きつぶした曲を、見当違いな解釈でねじ曲げている。湿っぽいはずなのに乾いており、秋が真夏になり、まっすぐ進むべき節が寄り道ばかりである。
 この状況で「下手くそ、出直してこい」と口にした経験はまだないが、思わずヤジる人はいるだろう。そして画面の向こうのあのスターも、きっとそうしたヤジに鍛えられてきたに違いない。とはいえ実績は万事を正当化しないものである。なぜなら、そのスターが水道橋の路上に舞い戻り、かつて顰蹙を買った名曲を歌うとして、多くのファンが集まると同時に抗議の声もあがるはずだからである。想像するに、単に「うるさいから静かにしてほしい」という水道橋原住民から、「やはり楽曲に関する解釈や主義主張が違う」という筆者のような原理主義者までが異議申し立ての権利をもつ。それに対してファンらが「私たちは歌を聞くためにここにいる。ヤジをやめろ」と応じるのは筋違いである。その言説には、水道橋の路上を音楽的抑圧の場に変えるのみならず、目の前にあるはずの「東京ドーム」の存在意義さえ喪失させる力がある。
 以上が公共空間たる「路上」を私的動機で占有した場合に生じうる、いささか極端ではあるが理にかなった顛末である。だがこれと似通った行為が選挙に関連してなされれば、180度解釈を変えるのが最近の日本のトレンドらしい。その典型例が、2019年参議院議員通常選挙北海道選挙区で発生した北海道警による「ヤジ排除」事件に対する世間の反応である。同事件においては北海道に対して一部損害賠償を命ずる判決が既に確定している。だがこの顛末に対して、2022年7月の安倍晋三銃撃事件や2024年4月の衆議院東京15区補選における選挙妨害事件といった街頭演説会場における刑事事件と関連づけて、反発的な意見が示されることが(とくにネット上で)多い 。
 そうした情勢をうけてか、最近では一般有権者側のヤジに対して政治エリートである政治家側が公然と抗議する事例が相次いでみられるようになった。ここ数年だけでも、政治家が壇上からヤジに対して直接的に「選挙妨害」であると指摘したり、極端なものだと「選挙の自由妨害罪」に抵触すると決め打ちして「私人逮捕」に踏み切ったりといった例さえ報じられている。またその裏返しとしてか、保守系新興政党の街頭演説に対し、スピーカーや発煙筒と思しきものを用いた抗議活動などが行われているともいう。このように明らかに現状の街頭演説会は混乱の一途をたどっているが、そのゲームの前提となっているルールは一体何であるのか。本稿では、選挙運動の私的領域/公的領域に関する戦前の論争について言及しつつ、この論点について考察していきたい。

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