コメンタリー

2025 / 03 / 31 (月)

長谷川章「ウクライナ戦争とソ連アニメーションの戦争の記憶」(ROLES Commentary No.52)

1.はじめに
  2022年2月24日のロシア軍ウクライナ全面侵攻は深甚な衝撃を世界に与えました。この報告は、今次の戦争と過去のソビエト期アニメーションにおける戦争の記憶の関係を探るものですが、まずは個人的な話から始めさせてもらえればと思います。
 2022年の侵攻が始まった日、私は所属大学のとある業務で東京に来ていました。業務初日の昼過ぎには仕事中に開戦の報が伝わり、いたたまれない想いに駆られました。翌日早朝起きたホテルのテレビでは、ロシアの全面勝利が見込まれ終戦が近いことからニューヨーク株式市場では株価上昇と誠にグロテスクなニュースが流れ憔悴したのも覚えています。
  こんな暗澹たる気持ちは、秋田に戻ってもつづきました。それを断ち切ってくれたのが、開戦当初にロシアで抗議の声が上がっているとの報道でした。特に、すでに開戦日から始まったロシアのアニメーターたちによる公開書簡の発表で、その筆頭署名者にはレオニード・シュヴァルツマンやユーリー・ノルシュテインといった、ソ連期を代表するアニメーターの名前が連なっていました。ロシアの人々が声をあげているのだから、打ちひしがれたままではなく、自分の本分からこの事態を考えなければと背中を押された想いになりました。
  とはいっても、自分が大それたことから始めたわけではありません。まず試してみたのは、2022年3月の時点で戦時下ウクライナの映画館でどんな作品が上映されているかを見てみることでした。慣れないウクライナ語でネットを検索すると、ミサイル攻撃最中の首都キーウの映画館はどれも営業停止のよう(この作業は予想以上に心が痛み、この企画は止めようかと思ったほどです)。
  それでは他の地域はどうかと、比較的安全とされた西部リヴィウの映画館を探すと、すぐに営業中のHPが現れました。その映画館のラインナップは、当時の日本公開とほぼ同じハリウッド映画の数々で、まるで当たり前すぎて戦時下であることを忘れるほどでした。さらにその中には、ウクライナ映画も散見されました。
 特に注意を引いたのは、2018年製作の長編アニメーション『ストールン・プリンセス キーウの王女とルスラン』(オレーグ・マラムシュ監督)です。ウクライナは2022年全面侵攻前に独自に長編アニメーションを作れる体制になっていましたが、この原作は19世紀に近代ロシア文学発展の礎となったプーシキンの物語詩『ルスランとリュドミラ』で、ロシア語圏であれば誰もが知っている物語です。
 これを原作とするアニメーションがロシアの現政権からの攻撃を受けるリヴィウで上映されているというのはどういうことでしょうか。一見、ロシアの政権と、慣れ親しんだロシア文化は関係ないという意志の表れともとれますが、『ストールン・プリンセス』はプーシキン作品に基づきながら、全編ウクライナ語でプーシキン自体への言及がまったくありません。全面侵攻前に製作された本作ですが、そこにはロシア文学の成果をウクライナ化して取り込み、自国の文化を豊かにしようという意図が多分にあったのでしょう。そうであれば、現在の戦争下でこの作品がウクライナの映画館で上映されていたとしても不思議ではありません。
 
2.ロシア・アニメーターたちの反戦声明
 いまのはウクライナ側のアニメーションをめぐる話でしたが、ロシア側の動きを見るためには先に言及したアニメーターたちの反戦声明について見ておきましょう。
 侵攻開始当日に有志が呼び掛けた、ロシアのアニメーターなどによる反戦声明は、国際アニメーション映画協会(ASIFA)によれば最終的に1000名もの署名を集めたとされます [1]。なお、ASIFAのホームページには同声明の英訳が現在も掲載されていますが、ロシア国内での迫害を危惧し、署名者の名前は掲載後まもなく非公開となりました。しかし、日本のメデイアでも紹介されたように [2]、署名の筆頭は、当時101歳のソ連最大のアニメーション・スタジオ<ソユズムリトフィリム>で美術監督として活躍したシュヴァルツマン[1920-2022]でした。また、『話の話』などで世界的に著名な監督ユーリー・ノルシュテイン[1941- ]も署名に加わりました。戦争勃発に対して、多くのロシアのアニメーターたちは積極的に抗議に参加したのです。
 ここでは、今後の検討のため、ASIFA掲載の反戦声明を全文訳出しておきましょう(英文からの訳出)。
 
「殺すな、破壊するな。つながれ」
ウクライナに敵対する軍事作戦に関するロシアのアニメーターたちによる公開書簡
 
 私たちが強く信じているのは、戦争は、死、痛み、破壊でしかないということであり、いかなる正当化もありえません。ウクライナとロシアのアニメーションの共同体は一つであって切り離すことはできませんし、長年にわたり、私たちはともに活動し、お互いの作品を見てきました。アニメーション芸術は、人々が自分を人間だと感じることができるように手助けする芸術です。殺すためでもなく、破壊するためでもありません。人々を結びつけるためにあるのです。
 
 なのに、今日、私たちの子どもや兄弟たちが敵対している相手は、つい最近まで、ロシアかウクライナかにわけられることなく、同じ庭で遊び、同じアニメーション作品を見てきた人々なのです。
 
 アニメーション、そして芸術は全体としていつでも反軍事的な精神を伝えるものでした。現在の軍事的行動は、ウクライナの友人や同僚たちに対するものだけではなく、すべての人々、人類、人間そのもの一般に向けられているのだと、私たちは考えます。
 
 私たちは戦争に反対します。兄弟たる国民が血まみれの悪夢に変わるような発言を私たちは望みません。
 
 空爆や殺害は正当化できません!
 
*「ロシア出身アニメーターたちがウクライナの平和を求める(2月24日開始)」(ASIFA、2022年3月7日)
 
 この声明は、ロシア側の人間が同じ世界観を共有していた人々に敵意を向けることの悲痛さにあふれています。このような事態に対して、アニメーションがウクライナだけではなく、世界がつながるための重要な手段であるとの認識が示され、確かにそれは私たちを深く納得させるものです。ロシアとウクライナが、同じ庭で遊び同じアニメを見ていた時のような友愛的な関係で結ばれることは望ましいものだと言えます。でも一方で、あまりにも一つであることが強調されているのではないかとの一抹の不安も残るのです。芸術面で、ウクライナがロシアとは別の自由な道を選ぶことに対する配慮は十分だったのだろうかと現時点で声明を読み返すと思ってしまう部分もあるのです。
 こうしたことも念頭に入れながら、現代ウクライナ戦争とソ連アニメーションにおける戦争の記憶との関連を以下、考えてみたいと思います。そのためには、まず、反戦声明署名の筆頭だったシュヴァルツマンに代表されるソ連期アニメーションの古参世代の戦争観、戦争体験を概観しておく必要があるでしょう。
 
3.シュヴァルツマンの第二次世界大戦体験
 シュヴァルツマンは、ロマン・カチャーノフ[1921-93]監督の有名な<チェブラーシカ>シリーズで美術監督を務めました。この作品は作家エドゥアルド・ウスペンスキー[1937-2018]の児童小説が原作ですが、その挿絵のチェブラーシカの姿はアニメーション化されたものとはまったく別物でした。人気を博した、あの愛らしいイメージはシュヴァルツマンの貢献によるものと言えます。
  その<チェブラーシカ>シリーズ[1969,1971,1974,1983]は、単純な児童向けの外見と違い、よく見ると意外にも社会的に重層的な造りとなっています。
  まず、<チェブラーシカ>シリーズが製作された1960年代末以降は、大都市郊外に巨大団地がつくられ、孤立した家族形態が急速に進行した時期でした。この時代の子どもは、複数世帯が一戸の住宅を共有して住む共同住宅(コムナルカ)ではなく、独立した高層団地の住居に住むようになった最初の世代で、シングル・マザーの家庭も多くなりました。結果、住居に子どもが一人きりで母親の帰りを待つというパターンが目立つようになります [3]。チェブラーシカという空想上の存在はこうした子どもの孤独に慰撫をもたらす存在となっていたことが考えられます。
  また、1960年代後半から70年代は、スターリン死後の雪解け期の自由な精神の名残が1968年のチェコ事件を受けて、ソ連国内でも急速に失われていった時代でした。そのため、自由な創作活動を模索していたアニメーターたちも、社会の中心に入ることができない疎外感・挫折感を抱くようになっていきます。社会が抑圧を強めていく中で、何とか善良なものを自分の中で守っていこうとする態度が、子どもの孤独に寄り添おうとする姿勢に重ねられていったとも考えられます [4]。
 こうした1960-70年代の孤独感、挫折感が<チェブラーシカ>シリーズの独特の哀感に関係しているとみることもできるのですが、さらにユダヤ系アニメーターたちの第二次大戦の体験も影響を与えているとする見解もあります [5]。
 そもそもシリーズのユダヤ系スタッフは、監督カチャーノフ、美術監督シュヴァルツマン、作曲のジフ、シャインスキー、撮影のゴロンプ、ゲーナの声の声優リヴァーノフ、アシスタントで参加していた『話の話』のノルシュテインなど多数にのぼっています [6]。
 中でも、シュヴァルツマン[図1]は1920年ミンスクのイディッシュ語話者の家庭に生まれました。その後、美術を志ざし家族とともにレニングラード(現ペテルブルク)へ移住します。しかし、独ソ戦でレニングラードが包囲されると、母は餓死します。一方、故郷ミンスクは独軍により徹底破壊され、近親者のほとんどは殺害されます [7]。
 なお、破壊されたミンスクは戦後、旧市街の再建は図られず、まったく新しい都市計画で復興されました。シュヴアルツマンは1996年からミンスクの失われた旧市街を描いたいくつかの絵画に取り組んでいます。1920年代の自らの子供時代を描いた、これらの作品では、ユダヤ人が多く住んでいた失われた旧市街への哀切な想いが強く感じられるのです。2017年のコムソモリスカヤ・プラウダ紙のインタビューで、シュヴァルツマンは、戦前のミンスクのこうした記憶が自作の街の造形に秘かに現れていたとしても驚きではなく、それは<チェブラーシカ>でも同様だとの発言をしています [8]。

[図1]シュヴァルツマン @Аниматор.ру

 このようにシュヴァルツマンは戦争で肉親を失い、故郷の町は壊滅し、ある意味、孤児であり故郷喪失者であったと言えます。その彼が2022年に101歳の長寿で存命中に、ロシア軍ウクライナ全面侵攻を受けて、どのような気持ちで反戦声明の筆頭に署名したのでしょうか。署名した数ヶ月後、同年7月2日に死去したからこそ、なおさら、その想いを強くします。
 
4.『オーロラ号』と戦争の記憶
  以下ではシュヴァルツマンを含めた<チェブラーシカ>の製作者たちが戦争体験を意識したと思われる作品について考えてみましょう。その作品とは、カチャーノフと美術監督シュヴァルツマンが共同で製作した中で、唯一ミリタリズム的色彩が濃い『オーロラ号』(1973)です。
 1970年代には、『ピオネールのヴァイオリン』(ボリス・ステパンツェフ監督)(1971)のような戦争を扱った子ども向けのアニメーション作品がいくつか作られました。すでに第二次大戦を知らない世代が成人になった時代で、児童に新しい形で愛国主義や国防意識を教育する必要があったためだと考えられます。『オーロラ号』もおそらく同じような位置付けにあるのでしょう。
 この作品はレニングラードを舞台としています。十月革命を象徴する巡洋艦オーロラ号を愛する少年が、オーロラ号の歌がないことを嘆き、街の作曲家を訪問し作曲を依頼します。すると作曲家がつくった曲とともに、オーロラ号の歴史が、クリミア戦争、日露戦争、第一次世界大戦、ロシア革命、独ソ戦のレニングラード包囲のエピソードを通じて物語られていきます。
 ここで注目すべきは歴史パートの描かれ方です。作品の大部分はカチャーノフ、シュヴァルツマンのコンビで馴染み深いストップモーション・アニメーションですが、オーロラ号の歌を依頼された作曲家は少年とともに、巡洋艦の歴史を学ぶため、オーロラ号博物館を訪れます。その展示品が実写で紹介される中、壁にかけられた一枚の絵に焦点が当たります。それは、帝政ロシアのクリミア戦争で活躍した初代オーロラ号です。そこから歴史パートが始まるのですが、ここではストップモーションではなく、白黒が逆転したネガフィルムのようなタッチの絵で描かれていきます。歴史パートのラストでは、独ソ戦のレニングラード包囲に際し、オーロラ号から外した大砲が郊外に置かれ独軍と対峙した経緯が紹介され、砲台跡の記念碑が実写のカラー映画の挿入で示されます[図2]。この箇所では、シャインスキー作曲のテーマ曲<巡洋艦オーロラ号>が情感たっぷりにピアノで演奏されます。
 この歴史パートのラストは象徴的です。アニメーションはオーロラ号の白黒逆転した描写から一転し、戦艦から外された砲台の記念碑のカラー映像へと移ります。実は、この記念碑はレニングラード包囲初期の絶望的な戦いをめぐるものでした。包囲開始の1941年にスマグリー中尉に率いられたオーロラ号の水兵は、同艦の砲台をレニングラード郊外南部に設置し、防戦したのですが部隊は全滅したと作品の中で説明されます。レニングラード戦のモニュメントは一般に包囲を突破した戦争後半のものの比重が高いのですが、『オーロラ号』で強調されているのは、国家的勝利ではなく、包囲初期の絶望的な局地戦の記憶です。ここでは、美術担当のシュヴァルツマンが実際に包囲下にいて、母親を亡くしたという凄惨な体験を重ねることもできると思います。なお、監督のカチャーノフもロシア西部スモレンスク出身のユダヤ系で、故郷が独軍に占領された際には父親と唯一のきょうだいである妹が殺害されています [9]。こうした事実からは、監督から美術監督に対しての痛切な共感もうかがうことができるのかもしれません。

[図2]『オーロラ号』:オーロラ号水兵の記念碑
[図3]『オーロラ号』:作曲家宅のショスタコヴィチの肖像
 
 <チェブラーシカ>シリーズが社会・文化的に重層的な作品だったのと同様に、『オーロラ号』にも、そうした多層性を見ることができます。その中で特に注目したいのは、アニメーションの中で言及される作曲家ショスタコヴィチの存在です。
 『オーロラ号』の歴史パートが終わると、少年は作曲家の部屋にいます。そこには大きく掲げられたショスタコヴィチの肖像写真が映ります[図3]。むろん、レニングラード包囲下の市民へ寄せた交響曲7番の作曲家が、包囲戦の記憶の後で提示されることはソ連の公的歴史観からしても当然のことでしょう。でも他方で、ショスタコヴィチはソビエト政権下で権力との関係の中で苦闘した芸術家でもありました。たとえば、ソ連がユダヤ人ホロコーストに極力言及しないよう圧力をかけていた状況下で、ショスタコヴィチは第二次大戦キーウでの虐殺をテーマとした交響曲第13番<バービイ・ヤール>を1962年に作曲します。この点を考慮に入れるなら、オーロラ号に捧げた曲の作曲家が自室に肖像を飾っていることは、政府の公的歴史観だけに留まらない創作者の姿勢を表したものとも言えそうです。 
 
5.ノルシュテインと戦争の記憶
 2022年の反戦声明でシュヴァルツマンとともに署名したノルシュテインの経歴は、戦争を青年期に体験したカチャーノフやシュヴァルツマンとは違っています。ノルシュテインは<チェブラーシカ>シリーズのアシスタントを務め、それと並行し、独創的な切り絵アニメの巨匠となったのですが、1941年生まれで、戦争時にはまだ幼児でした。彼はモスクワから疎開中の親の元、ペンザ州で生まれましたが43年モスクワに移住し育ちます。こうしたノルシュテインにとって、戦争のイメージとは戦時中の幼い頃の体験と周囲の大人たちの話によって紡がれたのです [10]。
 こうした自らと大人たちの記憶を受けつぎ戦争のイメージを結晶化させたのが、ノルシュテインの最大の代表作『話の話』[1979]です。ブレジネフ期の停滞が強まる中で公開された本作は、ソ連のアニメーションだけでなく世界全体でもアニメーションが達成した一つの頂点といえる作品です。
 本作にはいわゆるストーリーがなく、いくつかの世界が交互に提示される構造となっています。ただ、それでも中心となる部分は明白で、ノルシュテインの育った、モスクワ北方のマリイナ・ローシャにあった古びたコムナルカが舞台のモデルとなっています。
 1970年代の巨大団地の建設で、モスクワ周辺の地域が続々と再開発されていく中、住民が退去した廃屋にオオカミの仔が住みつくと、廃屋の中にかつての住民の記憶を幻視するようになるのです。そのなかでは、独ソ戦で一変した人々の様子も描かれます。
 スターリン時代の流行歌<疲れた太陽>にあわせ男女が何組も踊っています。突如、男の方が次々と姿を消していきます。女性たちが踊りの相手を失う中、男性たちの姿は軍装に変わり、女性たちの間をすり抜けて戦場へ赴きます。やがて、彼女たちに続々と戦死広報が届きます。疾走する貨物列車に木の葉が巻き上げられ、歴史の暴力の前では一個人の運命はここまで儚いのかと訴えるように、吹き飛ばされていくのです。
 その後に挿入される戦争のエピソードでは、戦争勝利の様子が描かれます。凱旋の花火が打ち上がるなか、男たちの幾人かは帰還しますが、パートナーが戻らなかった女性は男性が消え去った時の姿勢のまま立ち尽くしています。屋外には死者の追善供養で供されるウォッカが入ったコップとパンが置かれています。
 『話の話』の以上の場面は、戦争の悲惨さを残された者の悲痛で表現することで、きわめて優れた戦争批判となっています。戦時中に幼児だったノルシュテインが、残された者の個人的心情から戦場であったことを想像させるという方針も、その後につづく戦争を知らない戦後世代にアピールするところは大きかったと考えられます。
 
 2022年開戦直後にロシアのアニメーターたちによる反戦声明が出た際に、その署名者にノルシュテインの名前もありましたが、それを読んだ人の中には、当然『話の話』の戦争のエピソードを想起した人たちも多かったと推測されます。反戦声明の「アニメーション、そして芸術は全体としていつでも反軍事的な精神を伝えるもの」との文言は、まさに『話の話』の場面と共鳴するかのようでした。
 戦争から3年目の2024年6月、ノルシュテインに長時間インタビューした才谷遼監督『ユーリー・ノルシュテイン 文学と戦争を語る』が日本で公開されます。戦争開始後に、日本で同氏と親交の深い人々がインタビューを行い、その成果を映画としてまとめたものです。
 文学・芸術をめぐるノルシュテインの発言は、ゴーゴリやチェーホフ等への深い理解にあふれ、その現代的意義にまで想いをはせることができる優れたものでした。しかし、現在の戦争については、ウクライナ側の責任を断罪し、日本側に衝撃を与えました。
 この映画のインタビューの内容は、映画に使われない部分も含めて、同年10月、日本で刊行されました [11]。同書の内容に従って、ノルシュテインの発言を検討してみましょう。
 ノルシュテインの現在の戦争に対する発言は確かにショッキングなものでした。彼は「今回の戦争は避けられなかった」、ウクライナは「西欧やアメリカがロシアに敵対するための道具」とも言っているのです(同書p.27)。政権側の主張に即した、こうした発言を読むと、これまでの「反軍事的な精神」から彼がまったく離反してしまったと映るのです。日々、政権のプロパガンダにさらされて暮らさざるをえない状況ではこうなってしまうのでしょうか。反戦声明についてもロシアの現況への理解が足りなかったと述べ、見解を修正しているのです(「私も作戦が始まったときに反対の署名をした一人だ。だが今になって何が起きているか注意深く見ると、ロシアが挑発的な状況に置かれていたとわかった。」p.143)。
 ノルシュテインのこうした発言を率直に擁護することは困難です。でも、これをもって彼の作品を断罪することもできません。どのような要因で発言が生まれたのかということは、もっと情報が必要で、それまでは静観しかないのでしょう。ここでは考えなければいけない点をいくつか挙げるにとどめます。
 たとえば、ウクライナ側をノルシュテインが批判する時、真っ先に第二次大戦中に対独協力したウクライナ民族主義者のバンデラに言及しています(p.20)。ユダヤ系のノルシュテインにとって、ホロコーストに加担したとされる人物が、現代ウクライナで民族独立の闘士として英雄視される風潮は認められないものであったということは理解できます。ただ、そうだからといって、現在のロシア軍の加害行為が正当化されるわけではまったくありません。
 また、これとは別に、かつてのウクライナとロシアのアニメーターたちの交流の場となった、クロック国際アニメーション映画祭に言及している点も注目しましょう。1989年に開始されたこの映画祭では、船を会場に両国の河川や海を航行しながら行われました。ノルシュテインは、2014年、ウクライナ東部、クリミア半島をめぐる紛争が勃発した年に、この映画祭に名誉会長として寄せたメッセージをインタビューの最後で引用しています(p.150-156)。反戦声明には「ウクライナとロシアのアニメーションの共同体は一つであって切り離すことはできませんし、長年にわたり、私たちはともに活動し、お互いの作品を見てきました」とあります。ノルシュテインの映画祭へのメッセージは、このこととも重なるのですが、でも、それがウクライナ側の自由な芸術的発展を妨げるものではあってはならないはずです。
 
 このようにノルシュテインのインタビューは多くの問題をはらんでいます。ただし、芸術を論じた部分には、政治権力と芸術の関係について注目すべき箇所も実はあるのです。
 たとえば、以下のような箇所が挙げられます。
 
 「芸術家は決して政治家と折り合わない。政治家は自分のことを見て、芸術家は人生の偉大さを語る。」(p.81)
 
 「もし倫理があなたを支配し、芸術そのものの問題が道徳的規則に服従するなら、倫理は必然的にイデオロギーに変質し、力の特性を帯びます。そして、芸術の破壊が起こるのです。それはイデオロギーの観点から世界を必要とされる方向に表現しないからです。」(p.118)
 
 ノルシュテインのインタビューでは、ウクライナの政権を痛烈に批判しながら、一方で、ロシアの現政権への抗議はほぼ見られません。言論弾圧の現況ではそこには触れられないのか、そもそもロシアの政権の主張には異論がないのかはこれだけでは不明です。でも、ノルシュテインが言及している政治権力と芸術の問題は、元来、ロシアの文学・芸術の歴史で幾度も問い直されてきたことであります。その歴史全体を考慮に入れるならば、少なくともノルシュテインが置かれた今の状況については、即断を避けるべきなのでしょう。

[1] “Animators from Russia call for peace in Ukraine (initiated on February 24th” (March 7, 2022)

https://asifa.net/animators-from-russia-call-for-peace-in-ukraine/ [他のサイトに移動します](最終閲覧日2025年2月26日)
[2] 『週刊エコノミスト』電子版2022年6月16日号「チェブラーシカも戦争反対? ロシア語翻訳家児島宏子氏に聞く」[最終閲覧日:2025年2月26日]
https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20220610/se1/00m/020/004000d

[3] Кузнецов С. Zoo, или Фильмы не о любви. C.356. //Кукулин И., Липовецкий М., Майофис М. (сост. и ред.) Веселые человечки: Культурные герои советского детства. М.: Новое литературное обозрение, 2008.
[4] Майофис М. Милый, милый, трикстер: Карлсон и советская утопия о «настоящем детстве». C.241-286. //Веселые человечки: Культурные героисоветского детства.
[5] Katz, M. B., Drawing the Iron Curtain: Jews and the Golden Age of Soviet Animation. Rutgers Univ. Press, 2016.
[6] Ibid. P.122.
[7] Ibid. P.124.
[8] «Чебурашку, крокодила Гену и обезьянок мультипликатор поселил в Минске 1920-х» (Комсомольская правда, 15/IX/2017) (последний доступ от 2/I/2025) 
https://www.kp.ru/daily/26732.7/3758584/ [他のサイトに移動します](最終閲覧日2025年2月26日)この記事ではシュヴァルツマンのミンスク連作も写真で紹介。
ミンスク連作を描き始めたのが1996年からとの情報はシュヴァルツマン生誕100年を記念したロシアの以下のサイトに基づく。
«Леонид Шварцман. 100 лет художнику анимации» (последний доступ от 2/I/2025)
https://shvartsman100.ru/44/
[9] Katz. P.123.
[10] クレア・キッソン『『話の話』の話 アニメーターの旅 ユーリー・ノルシュテイン』[小原信利訳,未知谷,2008年]p.28.
[11] 『ユーリー・ノルシュテイン 文学と戦争を語る』(通訳:児島宏子、聞き手:才谷遼(他)、翻訳:鴻英良,毛利公美、守屋愛、ふゅーじょんぷろだくと、2024年)