コメンタリー

2025 / 01 / 17 (金)

真栄城拓也「【資料紹介】仲吉良光「アメリカ軍政府に懇願 沖縄島民は日本復帰を希望す」(1945年8月3日)」(ROLES Commentary No. 36)

仲吉良光・元沖縄県首里市長は、日本で最も早く沖縄の日本復帰運動を始め、その生涯を捧げたことから「復帰男」として知られる。本稿は、仲吉良光が米軍に沖縄の日本復帰を訴えた初めての陳情書を紹介する。

仲吉良光は1887年5月23日、沖縄県首里儀保村で琉球王国の旧士族の家系に生まれた。早稲田大学英文学科を卒業し、琉球新報社や東京日日新聞社(現在の毎日新聞社)、そしてカリフォルニア州ロサンゼルス市を拠点とする羅府新報社で新聞記者を務めたのち、首里市長に就任した。市長在任中に沖縄戦に遭遇し、九死に一生を得た仲吉は、収容所で通訳をするかたわら、米兵が読み捨てた新聞や雑誌記事から戦後処理で沖縄の帰属が論点になると見越した。仲吉は沖縄の復帰運動を決意し、日本初の陳情書を米軍当局に提出することとなる[i]
 仲吉はこの陳情書提出を、「復帰運動のスタート」として自伝で触れていた[ii]。だが、陳情書そのものは資料の散逸のために確認されておらず、その内容は断片的にしか伝わってこなかった[iii]

そうしたなか、筆者が日本外務省の外交史料館で資料調査を行っていたところ、仲吉による日本初の陳情書の写しを偶然発見することができた。

仲吉による陳情書の写しは、外務省管理局総務課によって1950年7月20日に編纂された、『沖縄諸島日本復帰運動概要』(以下、『概要』)に収録されていた[iv]。『概要』は仲吉が関わった陳情書や要請文を12通取り上げ、そのうち第一番目の陳情書として仲吉による初の復帰陳情書を収録している[v]。当時、外務省管理局総務課には仲吉の復帰運動を支えた吉田嗣延が所属しており、『概要』編纂にあたり仲吉から資料提供があったものと思われる[vi]

『概要』に収録された仲吉による初めての陳情書は、1945年8月3日付で「アメリカ軍政府に懇願 沖縄島民は日本復帰を希望す」と題し、沖縄駐屯アメリカ軍政府を宛先としている。仲吉は自伝において、復帰運動は「終戦の年、昭和20年真夏8月、広島に爆弾投下の2日前、島尻郡知念村同字で踏み切った」と記しているので、この陳情書を作成した翌日に提出に至ったということになる[vii]。仲吉の復帰運動は、日本の降伏以前から始まっていた。

この陳情書は、沖縄の日本帰属を訴える部分(以下、第一部)とその主張を補強するための琉球・沖縄史の展開を論じる部分(以下、第二部)の二つの部分で構成されている。

第一部ではまず、沖縄戦後の米軍による住民保護について「博大の措置」として評価し、「アメリカの機械力文化」による沖縄復興への希望を表明している。次に、米軍による占領は戦時の必要に応じたものであるとし、米国政府が掲げる民族自決および領土不拡大原則に反する、沖縄の併合は認められないと述べる。そして、米国世論の一部にある沖縄を中国に譲るという見解は妥当ではないと指摘し、この点を掘り下げるために、第二部で琉球・沖縄の歴史的展開について詳述していく。

第二部では、琉球王国の初代国王とされる舜天が、源為朝の子であるとする為朝伝説から書き起こし、琉球王国の成立について述べる。次に、琉球王国と中国との朝貢関係に触れ、それは経済関係が主で、政治関係は「数十年に一度の王冠授與の際のみにて支那政府直接沖縄の政治に干與せる事なし」と強調する。

他方、日本との関係では、琉球王国の名宰相である羽地朝秀による「日琉同祖論」を紹介し、日本人と沖縄人は同一民族であると主張する[viii]。その上で、琉球王国滅亡から沖縄県設置に至る「琉球処分」では、琉球王国最後の国王である尚泰が「世界の状勢を察知し到底沖縄が独立国として存立し得ざるを悟り、沖縄島民の向かう処を指示したるもの」と高度な政治判断の下、自ら日本の支配に服したと述べる。

沖縄県設置後は、王国時代の身分制度が打破され、沖縄住民は全国民と同様に教育を受け、徴兵と納税の義務を担い、国政参加の道も選挙を通じて開かれるようになったと述べる。また経済的にも沖縄の諸産業が勃興し、日本統治下の沖縄の発展を高く評価する。そして、「吾等はアメリカの統治を嫌うに非らずアメリカ人と親しみ得ざるに非らず唯言語、習慣、風俗の余りに異なる点より到底融和し得ざる筈にて、結局は東は東、西は西、沖縄人は東洋の一島国たる日本人民として生くるが最大幸福」であるとし、沖縄の日本帰属を訴え、陳情書を締めくくる。

この陳情書で目を引くのは、沖縄が日本に帰属すべきであるとする主張が、琉球・沖縄の歴史や住民の心情だけでなく、領土不拡大原則や民族自決といった米国が戦後世界秩序の構想で掲げた国際規範にも基づいている点である。国際規範に基づき沖縄の日本復帰を訴える仲吉による活動は以後も継続し、米国政府は異民族支配である自国の沖縄統治に対する国際社会からの批判に危機感を強めていくこととなる。こうした危機感は、米国の沖縄統治政策に影響を及ぼしたのみならず、沖縄返還の検討に向かう過程においても重要な要因になっていた
[ix]。この陳情書は仲吉による以後の復帰運動の原型であるのみならず、今後長期にわたる米国の沖縄統治が国際規範にどのように関わるかを問いかけた、先見的な文書である。


※仲良良光の陳情書全文はこちらをご覧ください。


[i]納富香織「仲吉良光論—近代を中心に」『史料編集室紀要』第25号(2000年3月)142頁。なお、仲吉の復帰運動は、自伝である『日本復帰運動記—私の回想から』(沖縄タイムス、1964年)と『陳情続けて二十余年 われら沖縄復帰期成会の歩み』(自費出版、1973年)から知ることができる。仲吉を復帰運動に駆り立てた動機や復帰運動全体における仲吉の位置付けについては、新崎盛暉『戦後沖縄史』(日本評論社、1976年)、渡辺昭夫「沖縄返還をめぐる政治過程―民間集団の役割を中心として」『国際政治』第52巻(1975年5月)、納富香織「仲吉良光論―沖縄近現代史における『復帰男』の再検討」『史論』第57号(2004年3月)を参照。
[ii]仲吉『日本復帰運動記』13頁。
[iii]納富「仲吉良光論」(2004年3月)50頁、中野好夫編『戦後資料 沖縄』(日本評論社、1969年)5頁。
[iv]外務省管理局総務課『沖縄諸島日本復帰運動概要』(1950年7月20日)『南西諸島帰属問題』第2巻A’.6.1.1.3, 外務省外交史料館。
[v]『概要』に収録された仲吉による陳情書等は、以下の通り。
「米軍沖縄現地司令部宛陳情書」(1945年8月3日)、「吉田首相宛沖縄戦の実情報告並びに日本復帰に関する政府の努力を要請」(1946年9月)、「マッカーサー元帥宛陳情書」(1946年10月)、「衆、参両院外交委員会宛沖縄にも新憲法が施行されるよう要請」(1947年6月)、「マ元帥宛マ元帥言明に対する意見並びに陳情書」(1947年10月)、「マ元帥宛沖縄経済再建に関する意見書」(1948年8月)、「衆参両院有志議員よりマ元帥宛陳情書」(1949年3月)、「マ元帥宛行政分離命令撤廃に関する陳情書」(1949年9月)、「沖縄現地の市町村長その他有志宛日本復帰運動喚起を要請」(1950年1月)、「全国知事会議の決議に基く全国地方自治協議会連合会会長東京都知事安井誠一郎氏よりマ元帥宛南西諸島の日本復帰懇請書」(1950年5月)、「沖縄諸島日本復帰期成会より関係各省大臣衆、参両院議長及び外交委員長あての陳情書」(1950年6月)、「東京在住沖縄人有志代表より在京中の米国務省顧問ダレス氏あて陳情書」(1950年6月)。
[vi]沖縄タイムス社編『私の戦後史 第3集』(沖縄タイムス社、1980年)98–100頁。
[vii]仲吉『日本復帰運動記』13–17頁。
[viii]仲吉は自伝において、戦後直後の虚脱状態で日琉同祖論に取り憑かれるようになったという。仲吉『日本復帰運動記』15頁。
[ix]真栄城拓也「仲吉良光の日本復帰運動の再考―『復帰男』が沖縄返還に果たした役割とは何だったのか」『ROLES REVIEW』第3巻(2023年3月)。なお、米国の沖縄統治政策における国際社会からの植民地主義批判の影響については、河野康子「池田内閣期の沖縄問題—国連における植民地主義批判とケネディ大統領の沖縄新政策を中心に」(1・2)『法学志林』第111巻第4号(2014年3月)、第114巻第4号(2017年3月)、真栄城拓也「キャラウェイ高等弁務官の沖縄統治(1961年2月―1964年7月)―『強権的』統治と沖縄返還」(1・2)『阪大法学』第70巻第5号(2021年1月)、第70巻第6号(2021年3月)を参照。

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