その他

2024 / 05 / 26 (日)

[Concept Notes]「中東王室の外交儀礼と日本:外交贈答品とその展示空間」に寄せて

[Concept Notes]
国際セミナーシリーズ「建築と外交」第四回「中東王室の外交儀礼と日本:外交贈答品とその展示空間」に寄せて

ジラルデッリ青木美由紀(イスタンブル工科大学)
池内恵(東京大学先端科学技術研究センター)

Lebigre Duquesne, Les visiteurs impériaux et royaux à l’Exposition universelle de 1867



東京大学先端科学技術研究センターROLES(池内恵)とイスタンブル工科大学建築学部(ジラルデッリ青木美由紀)が共催する国際セミナーシリーズ「建築と外交」の第4回「中東王室の外交儀礼と日本:外交贈答品とその展示空間」(2024年6月5日)では、建築史に焦点を当てていたこれまでの3回とは少し角度を変え、より美術史に寄せて、物質文化や視覚的・空間的経験と外交との関連を、掘り下げていく。
 今回のセミナーでは三つの研究報告が行われる。これらの研究報告では、近代における日本と中東諸国との関係の初期段階で外交の場面で交わされた贈答品に込められた意味やメッセージに迫っていく。日本と中東の双方の皇室・帝室・王室に由来する収蔵庫や博物館を調査した研究者による、三つの研究報告が行われる。
 研究報告に先立ち、特別ゲストとしてエジプトからアッバス・ヒルミ氏をお迎えし、特別講演を行う。アッバス・ヒルミ氏は、19 世紀初頭にオスマン帝国の宗主権の下でエジプトの統治権力を確立し、オスマン帝国から半ば自立し、エジプト国民国家の礎を築いたムハンマド・アリー(トルコ語読みではメフメット・アリ)王朝の系譜に連なる。アッバス・ヒルミ氏は、オスマン帝国の宗主権に形式的に服す藩王国としてのエジプト(1867−1914年)の最後の藩王(ヘディーブ)であったアッバース・ヒルミー2世(在位1892-1914年)の孫にあたり、今回のセミナーの研究報告で取り上げる主要な対象と、家族として、あるいは個人として 、深く結びついている。いわば歴史研究の対象そのものを壇上に招き、自身によるファミリー・ヒストリーの語りから歴史研究の手掛かりを引き出そうとする試みである。
 
「メフメット・アリ」と「ムハンマド・アリー」
 
 アラビア語・トルコ語で「偉大な大臣」「大臣たちの頭」を意味する「ヘディーヴ(トルコ語ではヒディヴ)」の称号は、近代になって創出されたものである。1798年のナポレオンのエジプト侵攻に伴いオスマン帝国による招集に応えてエジプトに赴いた傭兵隊長メフメット・アリ・パシャ(1769-1849年)は、短期間で頭角を現し、1804年にオスマン帝国からエジプトの総督(ワーリー)に任ぜられた。メフメット・アリ・パシャはエジプトの実効支配と自立化を進め、エジプトのナショナリズムの祖(アラビア語の)「ムハンマド・アリー」となっていく。宗主国への服属と、やがては主権国家の確立に向かう民族主義的自立の二つの要素が拮抗するオスマン帝国とエジプト・ムハンマド・アリー家の関係に、欧州各国は介入し加担し、それに押されて1867年、オスマン帝国スルタン・アブドゥルアジーズは、エジプト地方の世襲の藩王としての称号ヘディーヴ(ヒディヴ)を、ムハンマド・アリーの後継者イスマーイール・パシャ(在位1867−1879)に与えた。
 オスマン帝国の宮廷儀礼の格式では、ヒディヴは大宰相とシェイヒュル・イスラーム(イスラーム教の長老)に同格で次ぐもの、とされた。メフメット・アリの子孫に与えられたヒディヴは、オスマン帝国とその一地方であったエジプトの、愛憎ないまぜの関係を象徴的に表す位である。エジプトが半独立国となったのちも、ムハンマド・アリー(メフメット・アリ)の王家とオスマン王家との間には良好な関係が保たれ、婚姻関係が結ばれ、王族はカイロとイスタンブルを頻繁に往来して暮らした。
 1914年、エジプトはイギリスに保護国化され、ヘディーブ・アッバース・ヒルミー二世(アッバス・ヒルミ氏の祖父)は、オスマン帝国に近いとして退位に追い込まれた。代わって、その叔父のフセイン・カーメルが「スルターン(アラビア語で「支配者」の意)」の称号を用いて即位し、エジプトの王家とオスマン皇帝との主従関係はここに終了した。フセイン・カーメルの跡を継いだフアード1世は、1922年にエジプトが、依然として英国の植民地支配下ではあるものの形式的に独立国となる際に、称号を「マリク(王)」に改めた。
 ギリシアに生まれアルバニア人傭兵たちを率いた「メフメット・アリ」がエジプトで台頭し、1805年にオスマン帝国の総督(ワーリー)に任じられたことに発する王朝は、ヘディーヴ、スルターン、マリクと称号を転じ、宗主国をオスマン帝国から大英帝国へと転じながら、「ムハンマド・アリー」の子孫による王朝として、1952年までエジプトを支配した。
 ムハンマド・アリー王朝の創始者であるメフメット・アリ・パシャは、オスマン帝国側では「カヴァラル(ギリシアのカヴァラ出身の、の意)」家として知られる。これは祖先の故地ではなく、赴任地による呼び名とされる。アッバス・ヒルミ氏のファミリー・ヒストリーによれば、メフメット・アリの家系を中世まで遡るとトルコ中部コンヤのセルジューク系トルコ人の家系に行き着くとのこと。トルコの歴史家によれば東部のエルジンジャンを故地とする説もあるようだ。アッバス・ヒルミ氏は、父方で元来はトルコ系とされるエジプトの王家に連なり、母方はオスマン王家に連なっており、最後のスルタンであるムラト四世の曽孫に当たる。
 王室の系譜から見ることにより、近現代にナショナリズムによって画然と分たれたエジプトとトルコを、あるいはエジプトとギリシアとトルコをつなぐ、現在の国境には収まりきらない複雑な文脈が浮かび上がる。
 
皇室・王室の社交と近代の世界交通網・ツーリズム・博覧会
 
 ところで、19世紀後半から20世紀初頭、皇室・王室が外交に果たした役割の背景として、二つの大きな文脈を念頭に置く必要がある。ひとつは、この時代に飛躍的に発達した世界的交通網の登場、もうひとつは、万国博覧会、衛生博覧会、赤十字、近代オリンピックなどの文化的な国際イベントの登場という大きな流れである。世界の王侯貴族間の直接の社交も、この二つの車輪を得て、加速度的に展開していく。
 世界的交通網の発達に、王室外交も大いに関与している。海路・陸路の双方で、エジプトとオスマン帝国は大きな鍵を握る位置にあった。その最たるものは、1869年に開通した、地中海を紅海へ繋ぐ スエズ運河である この運河の開通により、欧州からアジアへの航路は飛躍的に短縮され、貿易の振興にも決定的な影響を与えた。エジプトのアレクサンドリアやポート・サイードなどの港湾都市が、近代航路の寄港地として栄えることになった。
 その際に、王室外交は大きな役割を果たした。正式にはオスマン帝国に属するものの、半ば独立していたエジプトは、スエズ運河建設を進めるフランスに接近した。しかし同時に、オスマン帝国との関係も、良好に保とうとしていた。
 ここで外交的に注目を集めたのが、社交界の名花として名高かったナポレオン三世皇后ウージェニー(1826−1920 )である。前年にパリを訪れたアブドゥルアジーズと面識のあったウージェニーは、スエズ運河の開通式に先立ってイスタンブルを訪問した。これは公式にはアブドゥルアジーズのパリ訪問の答礼とされた。しかし実際には、スエズ運河開通にあたり、立役者で皇后自身の従兄弟であるフェルナンド・レセップス(1805−1894 )と共に、公式にはオスマン帝国の属領ながら、ヨーロッパ諸国からは独立国として扱われていたエジプトと、宗主国オスマン帝国との間を橋渡しする外交的意味があったと見られる。
 陸路では鉄道が登場していた。オスマン帝国初の鉄道は、1855年にエジプトのカイロ・アレクサンドリア間で開通した。これに次いで翌1856年にはアナトリアでエーゲ海と内陸を結ぶイズミル・アイドゥン間が開通、また現在のブルガリア領内に位置するルスチュック(現ルセ)とヴァルナ間に鉄道が開通し、ドナウ川から黒海を結んだ。
 また、1883年には、ヨーロッパの主要都市とイスタンブルが鉄道で繋がった。名高い豪華列車オリエント・エクスプレスが走ったのはこの路線である。オスマン帝国の最初期の鉄道はイギリス資本によって敷設された。他方で19 世紀末に建設されたバグダッド鉄道はドイツ資本だった。よく知られるように、大英帝国の3C政策(カイロ、コンスタンチノープル、カルカッタ)とドイツ帝国の3B政策(ベルリン、バグダッド、ビザンチウム)が競って推進され、ヨーロッパの鉄道がイスタンブル経由でバグダッドにつながり、さらに東への延伸が計画された。
 
王室の「社交」の外交的意味
 
 元来、ヨーロッパ諸国の王侯貴族の間には、伝統的な姻戚関係などをもとにした交流があった。これが一九世紀後半になると、日本やオスマン帝国を含む、ヨーロッパのキリスト教圏以外の国々の君主が、この社交の輪に加わる。これらの社交に介在したのが、この時期に誕生した万国博覧会や衛生博覧会、あるいは赤十字の活動や、近代オリンピックなどの文化的な国際イベントである。これらの国際的なイベントは、従来は戦争や征服以外では他国へ足を踏み入れることを許されなかった各国の君主たちにとって、友好的な交際の良い口実となった。
 オスマン宮廷へ日本の文物を最初に受け入れ、イスタンブルの鉄道敷設を許可したアブドゥルアジーズは、オスマン帝国スルタンとして1867年、初めてヨーロッパへ旅行した人物でもある。 ナポレオン三世からパリ万博へ招待されたアブドゥルアジーズは、これをきっかけに、フランスはもとより、イタリア、イギリス、ベルギー、プロイセン、オーストリアを歴訪し、各国君主のもてなしを受けた。
  他方で、エジプトのムハンマド・アリー王朝の藩王イスマーイール・パシャ(1830−1897)も、同じ博覧会の開会式に出席している。同時代のフランスの新聞各紙の報道を追跡すると、フランス側が、イスマーイール・パシャをすでにエジプトの「王」と呼んでいたこと、しかしアブドゥルアジーズのパリ訪問が決まると、 エジプトは正式には当時まだオスマン帝国の属国であるため、その呼称をどうするかが、大問題となって議論されていたことがわかる。結論として、フランスのメディアはイスマーイール・パシャをvice roi (副王)と表記することで落ち着いた。そして、アブドゥルアジーズとイスマーイール・パシャは訪問の時期をずらし、鉢合わせを避けた。
 1867年パリ万博を訪れた各国の王族たちを描いた絵がある(本稿冒頭に掲載)。10人の君主たちの一番左端がアブドゥルアジーズであり、右から3番目、横顔の人物がイスマーイール・パシャである。二人は実際には同時期に訪問していないため、これが架空の絵であることは明白である。そして、イスマーイール・パシャの右側に描かれた、烏帽子に直衣を着た少年は、弱冠14歳の徳川昭武である。最後の将軍慶喜の弟である昭武は、パリ万博開会式出席後、そのままパリで留学生活を送るべく派遣された。しかし到着数週間後に江戸幕府崩壊の報をうけ、帰国を余儀なくされた。
  「中東王室の外交儀礼と日本」を語るにあたり、開国直後に諸外国から日本を代表する王室とみなされていたのが必ずしも天皇家ではなく、少なくとも1867年の時点までは将軍家であったことは、指摘しておかねばならない。
 王侯貴族たちの「社交」は、結果的に国家間の「外交」にも変化をもたらした。アブドゥルアジーズが訪問先各国の君主と直接面会し、交流したことで、オスマン帝国は欧州の王室外交の一角に加えられた。アブドゥルアジーズの欧州訪問後、欧州各国の王室メンバーが、続々とイスタンブルを訪問しているのもその延長線上だろう。
 この時期に、イスタンブルを訪れた王侯貴族だけをとってみても壮観である。英国のエドワード皇太子(のちのエドワード七世、在位1901 −1910年)とその妃であるデンマーク王女アレクサンドルは1868年1月にエジプト、オスマン帝国、ギリシアを歴訪している。イタリアのウンベルト皇太子(のちのサヴォイア侯爵、イタリア国王ウンベルト一世、在位1878-1900年)と従姉妹のサヴォイア王女マルガリータ・テレーザ・ジョヴァンナは新婚旅行の途上(1868年8月)に訪れている。 ナポレオン三世皇后のウージェニー(1826-1920年)と、オーストリア・ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ、プロシアのフレデリック・ギヨーム・ニコラ・シャルル皇太子はいずれも1869年に、ドイツの皇帝ウィルヘルム二世は1889、1898、1917 年の三度訪れている。
 それらの訪問旅行の旅程のなかで、オスマン帝国とエジプトは多くの場合セットになっている。また、これらの訪問者のリストからは、ヨーロッパ諸国の皇太子や王子など年若い王族にとって、イスタンブルあるいはカイロ訪問は、帝王教育の最後の仕上げ、いわゆるグランド・ツアーの一環とみなされていたことがわかる。
 オスマン帝国とエジプトへの訪問客は、ヨーロッパ王室に限らない。ジョホール王国のスルタン・アブ・バカール(在位1862-1895年 )は、1866年と1893年の二度、イランのナスレッディン・シャーは1873年と1891年に、シャム(現タイ王国)の国王チュラロンコーンの異母弟ダムロング・ラジャヌブハブ (1862-1943年)、ロシア皇帝アレクサンドル三世の弟の大公セルゲイ・アレクサンドロヴィッチ太公とエリザベス・フェオドロヴナ太公妃、同じく弟のパーヴェル・アレクサンドロヴィッチは、いずれも1887年にヨーロッパ歴訪の途上でイスタンブルを訪問している。
 一方で、エルサレムへの巡礼も、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、政治的な背景を帯びて加熱する。上述のロシア皇弟セルゲイ及びパーヴェル・アレクサンドロヴィッチ、ドイツ皇帝ウィルヘルム二世、オーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ、ブラジル皇帝ペドロ二世(1831-1891年)が、相次いでエルサレムを訪問した。
 小松宮彰仁親王が日本の皇族として初めてイスタンブルを訪問したのは、1887年のことである。一方で、日本の使節のエジプト訪問は、スエズ運河以前の欧州航路の経路上にあったことから、それより25年前に実現している。1862年と1864年に、万延と文久の遣欧使節団が、エジプトに上陸した。スフィンクスの前のサムライたちを撮ったアントニオ・ベアトによる有名な写真は、1864年の使節を被写体としている。そして1921年には、皇太子時代の昭和天皇裕仁(1901-1989年)が私的にカイロを訪問し、ムハンマド・アリー王朝のフアード一世と面会している。
 この機会に日本の皇族とオスマン帝国・トルコとのその後の関係をさらにたどるならば、小松宮彰仁親王の養子となった東伏見宮依仁親王が19世紀末に、久邇宮邦彦王が1909年に、ヨーロッパ派遣の帰路にイスタンブルに立ち寄っている。トルコ共和国の成立後、高松宮宣仁親王が喜久子妃を伴って昭和天皇の名代として行った14ヶ月の欧米旅行の途上、1931年にイスタンブルを訪問し、高松宮はアンカラで初代大統領ケマル・アタチュルクと会見している。高松宮は1929年に日本・トルコ協会(1926年設立)の総裁に就任する。
 
ムハンマド・アリー・タウフィーク王子に焦点を当てる
 
 これらの歴史を背景に、今回の研究報告では、ムハンマド・アリー・タウフィーク(トルコ語読みでは、メフメット・アリ・テーフィク)王子(1875-1955年)によって建てられたマニアル宮殿と、その日本との関係 に焦点を当てる。アッバス・ヒルミ氏は、ムハンマド・アリー・タウフィーク王子の大甥にあたり、エジプトの体制転換によって一時トルコおよび英国を拠点にしたものの、やがてエジプトへの帰国を許された。現在は「マニアル宮殿友の会」を創立するなど、マニアル宮殿の広大な敷地に点在する建物群、それを取り巻く自然環境及び植物園と、宮殿と博物館の収蔵品の保全に、現在も関わっている。
 カイロのナイル川に浮かぶローダ島に位置するこの美しい宮殿を建てたことで知られるムハンマド・アリー・タウフィーク王子は、ムハンマド・アリー王朝のエジプト藩王期、そしてエジプト王政期の時代に、ヘディーヴ位・王位継承者となった他、王政期にファールーク国王の幼時に摂政も務めている。それのみならず、文化人・旅行家として知られ、明治39年(1906年)に日本を訪れ、アラビア語で書かれた数少ない日本訪問記 を残してもいる(注1)。
 今回、アッバス・ヒルミ氏には、大叔父の建てたマニアル宮殿の知られざる側面と、その奥深くに残された収蔵品の由来、ムハンマド・アリー・タウフィーク王子の日本旅行記について、お話しいただく予定である。
 特別講演の後には、ジラルデッリ青木美由紀が聞き手となる対談で、アッバス・ヒルミ氏のファミリー・ヒストリーが学術研究に示唆する知見について、研究者の立場から検討する。特に、1921年に行われた、昭和天皇の皇太子時代のエジプト訪問の際の、ムハンマド・アリー王家と日本皇室との交流や、イギリスのダーラム大学に寄贈された家族の文書などについて、お話を伺う。
 
研究報告の概要
  
 研究報告では、近代化により西洋式が主流となっていく中東王室の宮廷儀礼や王族の生活空間のなかで、伝統はどう位置付けられたのかを、一つの解明課題とする。これは明治日本も共通して抱えた問題であり、日本・中東の皇室・帝室・王室の交流史の儀礼的な側面を通じて、「東洋」の君主家の公・私がないまぜになった空間において、「西洋」がどのように取り入れられ、変容し、「伝統」を形成・再生したかが、一つの関心事となる。セミナーの共催・共同企画者である東京大学の池内恵によるテーマ設定を受けて、イスタンブル工科大学のジラルデッリ青木美由紀が、半ば自立しながらオスマン帝国に服属していたエジプト藩王国の王室儀礼と、オスマン帝国の帝室儀礼を並行して見ることで、それぞれの特徴・違いを浮き彫りにする。また、万国博覧会などの欧州列強各国、中東諸国、そして日本などの王族・皇族が一堂に会する機会において、オスマン帝国とエジプトの間の力の均衡は、どう働いていたのかを検討する。
 国立歴史民俗博物館から、長年在外日本品の研究を手がけている日高薫教授をお招きし、幕末の遣外使節が携えた贈答品についての、最新の知見についてお話しいただく。日高教授は、フランスのフォンテーヌブロー宮殿で幕末の遣欧使節がもたらした漆器や日本刀などの贈り物を近年発見した。その展覧会がフランスで行われて間もない。また、三の丸尚蔵館の岡本隆志先生には、日本側に残された、中東諸国からの贈答品についての調査結果をお話しいただく。中東だけでなく、世界中から皇室が受けた贈答品を所蔵する三の丸尚蔵館のコレクションの中で、中東の国々からはどのような品が伝来しているのか。期待は高まる。
 
中東の近代化と<日本>

 オスマン帝国とエジプト、双方の日本観に大きく共通するのは、1905年の日露戦争での勝利のインパクトである。 日本とロシアの戦争は、当時、西洋列強の植民地主義に対する東洋の新興国日本の果敢な反抗と捉えられ、日本は、中東諸国の、西洋至上主義に不満を持つ人々から熱烈な賞賛を受けることになった。日露戦争勝利後、日本は非西洋国の近代化に対するオルターナティブのモデルとして、これらの国々から見なされていくようになる。
 オスマン帝国とエジプトも例外ではなく、同時代に日本に関する多くの見聞が残されている。そして、ムハンマド・アリー・タウフィーク王子の日本訪問は、まさに日露戦争で日本が勝利した直後の1906年のことであり、日本への関心が最も高まった時期でもあっただろう。
 オスマン帝国とエジプトの帝室・王室儀礼の中で<日本>の存在は、どう捉えられていたのか。これが本セミナーの究極の問いとなる。
 
(注1)ムハンマド・アリー・タウフィークの旅行記の多くが、出版社のHendawiのウェブサイトから全文PDFでダウンロードできる。

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