コメンタリー

2025 / 03 / 03 (Mon.)

濵砂孝弘「書評 竹内桂著『三木武夫と戦後政治』吉田書店、2023年」(ROLES Commentary No.44)

はじめに
 
戦後日本の政治外交史研究は、近年いよいよ「二周目」に入ったように思われる。2010年以降、戦後外交記録の公開状況が飛躍的に進展したが、2020年前後からは当時の主要な政治家や官僚、知識人などの個人文書も続々と発掘、公開された。文書の公開状況に即して分析対象時期が下っていく、いわば「一周目」の先端的な実証研究と並行して、近年では史料基盤の充実に伴い、改めて内政と外交を照らし合わせながら戦後初期〜中期を史的に検証する著作が多く登場している。戦後日本の政治外交史研究も「多すぎる」史料との格闘が求められはじめた。冷戦終焉と五五年体制の崩壊からすでに30年が経過する昨今、「戦後はまだ歴史になっていない」などとは軽々に論じにくくなったといえる。

著者の博士論文に基づいて2023年2月に上梓された本書は、「三木武夫が戦後日本政治において果たした役割を、政治史研究の観点から考察する」(1頁)大著である。中小派閥の領袖ながら保守勢力の激しい政争を生き抜き、首相に上り詰めた三木の政治的生涯を、膨大な一次史料に基づいて描出した労作だ。三木は従前より本格的な人物研究に恵まれず、毀誉褒貶が相半ばする様々な評価がなされてきた。そうしたなかで、著者は三木及びその周辺の面々の史料を博捜し、研究を積み重ねてきた。本書は、その一連の研究の集大成であるとともに、三角大福中と称された1970年代の自民党指導者に関する人物研究の最後のピースを埋めた重要な仕事といえよう。

それゆえ、本書は刊行以来専門家の注目を集めており、既に良質な書評に多く恵まれている。以下では、屋上屋を架すようで恐縮ではあるが、改めて同業者として論評を行いたい。まずは本書の内容と構成を簡単に紹介し、その上で、評者の視点から特長と課題を率直にコメントしたい。
 
本書の内容と構成
 
本書は4部構成であり、序章と終章のほか、全14章から成る。

序章では、三木研究の意義及び研究史の整理を論じた上で、本書の課題と目的が示される。著者によれば、三木に様々な評価が存在してきたのは、史料的制約とステレオタイプ化されたイメージにより、実証研究が充分には進まなかったからだという。確かに三木は、巷間「バルカン政治家」「クリーン三木」「保守の左」「保守傍流」「理想主義者」などと称されてきた。とりわけ、「三木にはアンチテーゼはあっても、テーゼはなかった」という北岡伸一氏の評価は広く知られる(北岡伸一『自民党―政権党の38年―』中央公論新社、2008年、186頁)。

これに対し、著者は史料状況の改善を踏まえた「従来の三木のイメージにとらわれない研究」が必要だという。そこで、本書では三木の「権力政治における関与、対応の究明」及び「政策の検討」という二つの視角に基づき、「政治史の観点から三木武夫を実証的に研究する」。それにより、三木が戦後政治に果たした役割と彼の位置付けを明らかにし、政治家としての再評価を行う旨が示される(2頁、7-9頁)。

本論では、まず第I部に2つの章を割き、三木の青年時代と戦時期の動向を記述している。両親の寵愛を一身に受けて育った三木は子供の頃から書物に親しみ、弁論活動に熱中した。一方で、やや金遣いが荒く、飲酒が原因で徳島商業高校を退学した。明治大学への入学後、雄弁部で頭角を現した三木は、1929年から30年にかけて欧米諸国を歴訪し、その後1931年から35年まで米国に遊学した。

帰国した三木は、地元代議士の書生を経て1937年4月の衆院選で初当選を飾った。政治を「民力そのものの表現」とする三木は、「議会を浄化し政党を革新して真の与論政治を行ふ」ため、無所属での出馬にこだわった。当時の政見に、「国体を明徴して一君万民の政治を確立する」のほか、「祭政一致」まで盛り込んだことは興味深い(56-58頁)。三木は時局同志会に加入して皇軍慰問に参加し、日中戦争遂行のための日米親善に努力した。ところが、斎藤隆夫除名にも新体制運動にも賛成し、大勢に順応し続けたにもかかわらず、三木は翼賛選挙を非推薦候補として戦う羽目になった。彼は、「聖戦を貫徹し大東亜を建設し以て八紘為宇の世界経綸を行ふ一億一心の政治」への献身を強調し、再選を果たす(87−88頁)。その後は、翼賛政治会、大日本政治会に参加し、戦争遂行への協力を言明し続けて終戦を迎えた。

続く第Ⅱ部では、鳩山一郎政権期までの三木の政治行動を論じる。自由党と社会党の間で中道勢力の結集、あるいは「第二保守党」の強化を図りながらも、最終的に自由民主党の結成に加わり、保守政治家に転じる経緯が詳述される。

三木は、戦前の日米親善への尽力をGHQに訴えて公職追放の危機を脱するや、欧米歴訪及び米国遊学の経験による「国際的な知識」を強調して1946年4月の衆院選でも当選した(108-114頁)。その後、同年6月の協同民主党入党で初めて政党に加わった三木は、協同主義を政策面の柱に据える。彼は、中道連立政権では片山内閣に入閣し、その後の芦田内閣総辞職の際には三木首班論も浮上するなど、有力政治家として台頭した。第二次吉田政権の発足後は、民主党野党派と社会党右派を含む中道勢力の結集と「協同主義に基づく政策の実施」を訴え、1950年4月に国民民主党を結党した(179頁)。

 三木は追放解除に伴う政界再編のなかで、1952年2月に結党された改進党の幹事長に就く。だがその後、選挙結果が振るわず辞任に追い込まれ、徐々に影響力が低下する。保守合同の過程でも、吉田政権の延命や、自由党との合併による「保守大合同」論に一貫して反対したものの、日本民主党の結成に影響力を及ぼせず、自民党の結党も阻止できなかった。ただし、著者によれば、三木は日ソ国交回復で鳩山首相に「アデナウアー方式」での解決を具申し、訪ソを提案したという。鳩山外交への影響力という論点は興味深い。

ところで、当時の重要争点は何といっても講和と再軍備の問題だった。三木は当初全面講和を唱えたが、朝鮮戦争の勃発を経て1951年1月には単独講和論に転じ、国連による安全保障と警察予備隊の強化を通じて自衛を全うすべしとの見解に至った。三木がかなり早い段階から吉田の講和方針、特に旧安保条約及び行政協定の問題点を正確に把握し、国会で追及したことはよく知られる。それでも、彼は講和会議に全権委員を派遣した国民民主党の幹事長として、党内を両条約賛成へと取りまとめた。独立後の再軍備については、三木は慎重な姿勢を崩さず、憲法改正が必須と考えていたが、1953年4月以降は、再軍備に憲法改正は不要との見解を明らかにしたという。

また、三木は第二次吉田政権の発足時点では、保守と革新の二分論は不当であり、現実的な中央政党を中心とする「三大政党制」へと政界を再編すべきと唱えた(179頁)。だが、改進党の結成後は、保守主義の自由党と進歩主義の改進党及び社会党との「保守―進歩」二大政党制を主張し始めた。この段階での三木は「進歩側」を自認しているが、日本民主党に属して1955年2月総選挙を戦う上では、社会保障政策は保革共通の課題だとして、「保革紙一重」論を唱え、自らを「社会化された資本主義」に依拠する保守政治家だと位置付けるようになった(220頁、224-225頁)。以上を踏まえて、著者は、憲法改正と再軍備の可分論によって三木が「軽武装・経済優先」という吉田の考えに接近し、外交面でも内政面でも中道から保守に転じたことを示している。

第Ⅲ部では、石橋政権期から佐藤政権期、すなわち「五五年体制」前期における三木の政治行動が4つの章、250頁超に亘って詳述される。三木は石橋湛山政権の誕生に貢献して幹事長に就いたものの、首相の病状悪化に伴い岸信介への政権移行に尽力した。その後は警職法改正問題を契機に岸への不満を強め、安保改定をめぐる政局では離党と新党結成を真剣に模索した。続く池田勇人政権では1962年10月に党組織調査会長に就任し、派閥解消を含めて党近代化に関する論点を体系的に打ち出した(三木答申)。ところが、池田と反池田勢力(佐藤栄作、藤山愛一郎)が激突した1964年7月の自民党総裁選では、「両派組んで最後まで候補をきめず、〔…〕各派、各人自由に投票しよう」と石井光次郎に持ちかけながら、わずか二日後には単独で池田支持を表明し、三木派内の異論を封じて池田総裁三選に道筋をつけた(326−328頁)。こうして三木は再び幹事長のポストを得たが、派閥領袖の立場を優先した行動は「三木答申の自己否定」(329頁)を意味した。

しかし、三木は幹事長として手腕を発揮する暇もなく、再び首相の病気退陣に遭う。佐藤への後継指名に尽力した三木は、この時点で次期総裁候補の最有力者となり(335頁)、佐藤政権の前期は重要閣僚を歴任した。三木は通産相に就くと、「アジア太平洋圏構想」ないし農業に力点を置いた東南アジア開発問題に意欲的に取り組んだ。外相としては、冷戦における東西融和と平和共存を旨とし、北方領土問題、核軍縮に熱意をみせた。特に後者では、非核三原則と日米安保体制の両立を目指して事前協議制度の実効性を確保しようとし、沖縄・小笠原返還問題では米国と激しい交渉を繰り広げたという。

ところが、順風満帆に見えた後継総裁への道に暗雲が立ち込める。三木は池田の病気退陣の際、佐藤政権は二期四年までとの条件で政権授受に協力したつもりだった。しかし、佐藤は1968年秋の総裁選に三選をかけて出馬する意向であり、禅譲を目指す三木の戦略は狂い始めた。三木は派内の突き上げもあって出馬に踏み切るが、佐藤との関係は決定的に悪化し、こののち三年半に渡って非主流派に甘んじる。すると、三木は主流派時代に封印していた政治浄化・党近代化や対中政策の転換を主張し、佐藤批判を強めた。特に後者では、1971年のニクソン・ショック前後から中華人民共和国を正統政府と位置付けて復交三原則を受け入れる姿勢を示し、翌年4月には訪中して周恩来との会談に臨むなど、ポスト佐藤に向けて日中国交正常化を総裁選の争点に浮上させた。佐藤長期政権の限界を突く政局勘には鋭いものがあった。

第Ⅳ部では、いわゆる三角大福中の五大派閥が覇を競った「五五年体制」後期における三木の動向が活写されている。田中政権の副総理兼環境庁長官として、三木は水俣病患者救済に尽力するとともに、第一次石油危機に際しては中東への特使として対日石油供給の回復を主導した。だが、1974年7月の参院選における「阿波戦争」を契機に三木は閣僚を辞任し、党近代化を掲げて金権政治批判を繰り広げた。

田中退陣後の椎名裁定で首相の座に就いた三木は、公職選挙法・政治資金規正法の改正といった政治倫理問題を中心に、独占禁止法の改正問題(最終的に挫折)、防衛費の対GNP比1%以内枠付け、核拡散防止条約への批准など、多岐にわたる内政外交の進歩的な政策を推進しようとした。だが、主流派の結束力を欠く三木の政権基盤は終始弱体であった。そして、ロッキード事件に端を発した三木おろしの凄絶な政局のなかで、彼は総選挙敗北の責任をとり退陣を余儀なくされた。

首相辞任後の三木は、福田政権、大平政権下の打ち続く派閥政局にも存在感を発揮した。「議会の子」を称し、政党政治家を自認してきた三木が、大平内閣不信任案の採決を欠席しながら自民党を離党しなかったことに、著者は「最大の矛盾した行動」(676頁)と酷評する。その後、1980年に三木派が解散すると河本敏夫が事実上の後継領袖となるが、三木は河本派に属さず、大所高所の見地から政治倫理及び国際軍縮の問題に取り組んだ。三木の政治的「余生」は短いのだが、権力政治の舞台を降りた長老議員として、自らの理念を正面から打ち出すようになっていく。衆議院議員在職50年余、政党政治家三木武夫は1988年11月14日に81歳で逝去した。

終章では、本論に基づいて三木に対する総括的評価が行われ、その「従来のイメージ」の修正が図られる。三木は協同主義政党に所属したことで、占領期の政界で若くして台頭できた。だが三木は、自民党の包括政党化に伴って他の保守政治家との政策面の相違が縮小したのちも、その出自により、「保守傍流」との評価に甘んじたという。この点、福田とは「政治倫理や反角では一緒になれる」一方で、外交や憲法問題では「むしろ大平の方が近かった」(716頁)という三木の述懐は示唆に富む。著者は三木の本質を、たえず理想を掲げつつも、権力を飽くなきまでに追求し、その理念をかなぐり捨てることも厭わない「現実主義者」―三木の言葉で言えば「理想を持ったバルカン政治家」―だと規定する。その上で、保守政治の中に自浄作用があることを示し、権力政治の中心にありながら議会政治のあり方を継続的に研究した点に、戦後日本政治史における三木の重要性が見出せると指摘し、本書は締め括られている。

以上が、本書の概要である。これを踏まえて、以下では本書の特長と課題について率直に論じたい。なお、先行書評と重複する論点もあることを予め申しあげておく。
 
本書の特長
 
本書の最大の特長は、極めて充実した史料基盤にある。著者自身が整理に携わった三木武夫関係資料(明治大学所蔵)の全面活用自体が意義深いけれども、国内外の様々な文書館で膨大な未刊行史料を渉猟し、また遺族私蔵の個人文書を多く発掘している。三木による一連の論稿やインタビュー・座談会記事も丹念に収集されているが、なんといっても三木の地元紙『徳島新聞』や彼の出身高校・大学の学校史の活用などが目にとまる。地元新聞の調査という研究アプローチは、戦後の政治史ないし人物研究でも今後ますます多用されるであろう。「史料には強くこだわった」(759頁)という著者の歴史家としての矜持が感じられる。

このように、徹底的な実証を標榜する本書では、著者が三木睦子、岩野美代治といった遺族、秘書を含めて三木の関係者に接触し、彼らの重要な証言ないし記録を数多引き出している。それにもかかわらず、著者の三木評価が均衡を保ち、いわば等身大の三木像を描いたことに、本書の第二の特長がある。三木には自身の高邁な主張と矛盾する政局的な行動が多く、それが評価の難しさ、毀誉褒貶につながっている。その点、政治家三木の理念と政局上の行動の双方を、豊富な史料に依拠して丁寧に論じる本書の筆致は、彼の立場と状況を詳細に示しており、「現実主義者」としての統合的な解釈を可能にしている。加えて、著者は政治学者の見地から三木の言行不一致を折に触れ批判しているが、政治史研究としての公正な姿勢も本書の議論に説得性を増す。

これに付随する第三の特長は、著者の選挙分析及び政局叙述の妙であろう。

前者について言えば、初当選を飾った1937年衆院選、非推薦候補として戦った1942年翼賛選挙、公職追放を免れて臨んだ1946年の衆院選は、三木が地歩を固め、有力政治家へと大成するか否かの分水嶺であるだけに、叙述が厚い。著者は地元新聞の活用によって、戦時体制への献身を訴えたかと思えば戦争への反省と民主政治擁護を声高に弁舌する三木の、時局に右顧左眄する軽薄な姿を如実に浮かび上がらせつつ、猛烈な選挙運動や戦術の巧みさ、選挙区内の情勢もあわせて説明しており、当選要因を説得的に提示している。1974年の「阿波戦争」も含めて、三木の立身と直結した選挙を詳細に分析し、中央政局への影響に結びつける手腕は余人をもって代え難い著者の美点である。

また、後者については、史料を博捜して三木、佐藤、井出一太郎らの肉声を掘り集めたことで、迫力ある生々しい政局描写に成功している。その典型が、本書の山場であり、三木自身のターニング・ポイントとなった1968年総裁選出馬に至る経緯や、1976年の三木おろしの政治過程に関する叙述だ。元来、「八個師団」の一角として河野や池田と覇を競ってきた三木は、佐藤に反旗を翻したことで冷飯食いの非主流派へと転落し、田中、福田、大平の台頭を招く(440頁)。本書で改めて注意を促されたのは、三木も元は佐藤と蜜月関係を構築して政権の中核を占めていたことだ。従前より佐藤と三木はその対立関係が注目されがちだが、今後は佐藤政権前期の外交及び通商産業政策のプロセスにおける「一体性」も検討すべきであろう。三木おろしの政局についても、保守政権の首相として昭和天皇在位五〇年記念式典の開催を最優先する見地から、解散権が事実上封印されていたという指摘は注目に値する。挙党協に包囲され、切所に臨む三木と井出ら派閥幹部の苦悩や葛藤が克明に記されており、読者を惹きつけてやまない。

最後に、評者の視点からみた学術的意義を述べたい。第一は、三木及びその関係者の視点から戦後政治を捉えたことに付随する意義である。思えば三木は、吉田にも岸にもルーツを持たず、田中や河野一郎、大野伴睦といった代表的な党人政治家ほどジャーナリストの食指を動かさず、さりとて中曽根のように「歴史法廷」での裁きに備えてせっせと陳述書を用意しておくわけでもなかった。本書は、「吉田路線/ドクトリン」、「保守本流」、あるいは『小説吉田学校』の世界観といった、戦後日本政治史における「稜線」の脱構築という昨今の研究潮流に適応することで、三木の政治的足跡を復元した。そこには、戦後政治の種々の局面の評価について、三木の観点を組み込んだ相対化を促す予備的貢献があろう。

第二の意義には、やはり三木研究の画期的進展を挙げたい。本論で示されるように、著者は三木の「従来のイメージ」を様々に修正している。それは、「徹底的な実証」もさることながら、三木の全生涯を研究の射程に入れた賜物でもあろう。先述のように北岡氏は、「三木にはアンチテーゼはあっても、テーゼはなかった」という有名な人物評価を提示したが、本書を通読すると些か異なる論評も可能にみえる。すなわち、当初時局に右顧左眄するばかりでアンチテーゼさえ持ち合わせなかった三木が、政治の浄化というテーゼに辿り着く長い人生航路が浮かび上がるのである。経済成長を終えた負担分担の時代には、政治倫理の重みが増す。三木は現代日本政治の宿痾に、実行力を欠きつつも先駆的に取り組んだ。その営為を跡付ける本書には、息の長い学術的かつ社会的意義があろう。
 
本書の課題
 
上述したように、本書には多くの重要な特長がある一方、さらに検討すべきと思われる点もないわけではない。そこで以下では、本書の課題について率直に述べていきたい。

第一の課題は、政治過程の叙述が三木(派)の認識に依拠しすぎていることである。実は、本書における著者の視点は三木(派)の番記者のそれであって、さながら戦後政治史を三木及び関係者への「ハコ乗り取材」で共に歩んだ読後感を覚える。もちろん、著者の三木に対する眼差しは公正なのだが、本書では政局への叙述を除くと、他の政治主体との比較検討や相互関係の分析、あるいは三木の「政策的主張」ないし行動と、政治、経済、社会状況との牽連性が捨象されがちといえる。それゆえか、本書では三木が「現実主義者」というありふれた政治家像の一員なのだと判明した一方で、彼の個性ないし固有性を意味づけてその相貌を端的に析出することには必ずしも成功していない。著者は先行研究に残る課題を「戦後政治史における三木武夫の位置付けがなされていない」ことだと指摘したが(7頁)、先行する書評でも提起されるように、管見の限り本書でも三木の位置付けや評価が明示されたわけではない。

これと表裏を為す第二の課題は、派閥政局といった権力過程の叙述と比べたとき、政策(決定)過程への叙述が大味ということだ。それは、本書が政治、経済、社会上の構造ないし状況といったコンテクストを大凡捨象して三木の動向を跡付けたことに起因していよう。本書が主に依拠する政治家の日記等の個人文書は、間主観的な要素がものをいう権力過程、特に政局の叙述には適しているが、公共政策の決定過程ないし実施過程の検討には、主体間の認識のみならず状況ないし構造(制度)面の把握が欠かせない。なるほど本書は三木の様々な時期の「政策的主張」を数多く記述している。だが、三木のアウトプットを記述する一方で、彼の「政策的主張」を構成するはずのインプットや状況認識への叙述は僅少であり、その全体的な政策体系や史的展開は必ずしも分析しきれていない。

ゆえに、三木の「政策的主張」の解釈が政局上の効能で回収されたり、箇条書きで点描的な叙述に終わることも一再ではなかった。無論、この筆致は「三木にとって政治とは何よりも権力闘争への対応を意味した」(3頁)という著者の判断に基づくのかもしれない。だが、少なくとも三木政権の施政については、それが戦後政治の転換期を切り結ぶものだけに、より記述を厚くしても良かったのではないか。戦後政治に占める三木の評価や位置付けを本書から解しにくい一因は、この点に帰するとも思われる。

第三に、史料解釈の問題をとり上げたい。本書における史料の博捜具合には唸るしかないのだが、各史料を照応し、吟味し、因果関係を捕捉して行間の文脈や空白を埋めるといった史料批判ないし解釈の側面にはやや課題が残るであろう。史料に誠実で抑制的な著者の姿勢の裏返しでもあるが、直接引用した史料部分を受けて、ほぼそのまま地の文で著者の解釈としている箇所が散見される上、三木の主張が以前と変化した際にも、変じたことのみ示されてその要因が論じられないことがしばしば見受けられる。無論それは、「史料をもって語らしめる」こととは異なる問題である。

例えば、三木が初当選を飾る1937年衆院選についてである。第1章では著者発掘の資料に基づき三木の遊学や雄弁部での活動が詳述され、三木が帰国後に地元の挨拶回りを行い、「代議士となる意欲をすでに在学中に抱いていた」ことも明かされる(41頁)。だが、彼がなぜ、いかなる経緯で政治家を目指したのかは言及されない。また、三木がこの衆院選で既成政党を批判し、政治とは「民力そのものの表現である」「真の民力を表現せねばならない」と訴えたことが直接引用された上で、著者は、「三木が望んでいたのはやはり『民力』が表現される政治」だったと論評する(56頁)。けれども、それは何を意味するのか、つまり三木研究の観点から(ないしは政治史研究の知見に照らして)、三木の主張をどう位置付け、評価すれば良いのかは定かでない。

別の例を挙げると、第Ⅱ部では、占領期の三木が協同主義を旗印に中道勢力の結集を模索し、「三大政党制」を唱えたことが明らかにされる(178−180頁)。だが、改進党結成後の三木は、その綱領に明記されたはずの「協同主義に触れなくなった」(209頁)。そして、「そもそも三木は、改進党が結成された当初は〔…〕保守主義の政党と進歩主義の政党による二大政党制が望ましいとしていた」旨が指摘される(220頁)。その時の三木は「進歩派」を自認しているが、1955年2月時点では、自らを保守と位置付けたのであり、著者もこれを「三木の政治活動における一つの転換点」だと述べる(224−225頁)。そうであれば、以上の三木の変化は相応の重要性をもつはずなのだが、なぜ、いかなる経緯で三木が立場を変じたのかは管見の限り説明を欠く。史料の捌き方に今後の課題があろう。

最後に内容面にも言及したい。まず、本書は研究の意義の一つを「『協同党系』からみた戦後日本政治史研究」に設定しており、自民党の包括政党化の中で「協同党系」が包含される過程を「重要な検討課題」としている(4頁)。では、本書が視角の一つとして検討してきた三木の「政策的主張」と、自民党の包括政党化はいかなる関係にあるのだろうか。すなわち、自民党の包括政党化は、三木の主張が反映されたのか結果なのか、自民党自体が政策面の幅を広げたのか、あるいは三木が結局は離党しなかったという政局上の結果で回収されるのかという疑問である。三木は先行研究で協同主義を通俗化した政治家と評されるが、そのこととの関連も含めて、三木の「政策的主張」の史的展開と、自民党の包括政党化の間をつなぐ政策過程のさらなる解明を期待したい。

加えて、著者は三木の「保守政治家」の側面を押し出すうえで、改進党時代に再軍備と改憲の可分論をとった三木には、「早くから『吉田路線』との親和性」があったと評価している(716頁)。三木は改進党の自衛戦力合憲論(清瀬理論)に従ったのだと推察されるが、それはそもそも、改憲と再軍備は不可分であるから戦力は持ち得ないという吉田政権の近代戦争遂行能力論を批判する論理ではなかったか。吉田の政策枠組みを「軽武装・経済優先」と規定するか(216頁)、憲法九条と安保体制の両立と捉えるかはさておき、経済・社会政策の内実のみならず、外交・安全保障への姿勢も同時代的にみれば当時はまだ相当距離があったように見受けられる。いずれにせよ、三木の「包含」の経緯は今後も論点になると思われる。
 
おわりに

以上、本書の特長と課題について率直に論評させていただいた。評者に誤読、曲解、認識不足、非礼な表現、ないものねだりの批評があったかもしれない。その点は何卒ご海容いただければ幸甚である。そもそも、三木武夫の政治的足跡を包括的に描き出す破格の射程を鑑みれば、先ほど課題として挙げた諸点には、望蜀のものが多かろう。

いずれにせよ、三木の評価及び戦後日本政治における役割を問いかけた本書の意義は大きい。日本政治史の研究領域で、今後必読文献として位置づけられよう。現在の日本政治を考えるための重要な洞察にも満ちている。本書が幅広い読者に手にとってもらえることを願い、筆を擱くこととしたい。
 
【付記】
 本稿は内務省研究会(2024年12月7日)における書評報告を大幅に加筆修正し、活字にしたものである。著者の竹内桂氏をはじめ、関係各位に心より御礼申し上げる。