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2024 / 06 / 04 (Tue.)

[Conference Papers] 渡邉洪基:国制のファクターとしての帝国大学の建設者

[Conference Papers]
2024年4月22日(月)に、東京大学先端科学技術研究センターで、国際セミナー「コンスタンチノープル会議(1876)と近代日本外交の黎明」が開催されました。本稿は、このセミナーで瀧井一博先生が行った研究報告の概要です。


渡邉洪基:国制のファクターとしての帝国大学の建設者
 
瀧井一博(国際日本文化研究センター)
 


  建築と外交を、しかもオスマン帝国におけるこの両者の関係を討究するというセミナーに私のような者が登壇することは、何とも場違いのように思われよう。私は、池内先生のように中東研究者でなければ、青木先生のような建築史家でもない。あまつさえ、Eldem先生のようにトルコ史の専門家でもない。このセミナーにどれほどの貢献ができるのか、まことに心もとない。
  私にお声がけがあったのは、青木先生が渡邉洪基という明治の外交官に関心をもたれていることに理由があると推察される。私もこの非常にユニークな明治時代の日本人に関心をもち、その評伝を著した(瀧井一博『渡邉洪基―衆智を集むるを第一とす―』ミネルヴァ書房、2016年)。青木先生のお話で取り上げられたように、渡邉は1876年にオスマン・トルコを旅行し、その見聞の記録を残している。それは未刊行のノートのかたちでしか残っていないが、青木先生はそれを緻密に読み解かれている(参考:ジラルデッリ青木美由紀「オスマン官僚と明治官僚―ムスタファ・ビン・ムスタファと渡邉洪基が見たもの瀧井一博編『明治史講義【グローバル研究篇】』 ちくま新書 1657、2022年)。
 渡邉とオスマン・トルコの関係については、青木先生にお任せして、本日私は、そもそも渡邉とはいかなる人物だったのかを御紹介したい。このセミナーのテーマとは外れるかもしれないが、以下の3つの理由をあげて、お許しを乞う。
第一に、青木先生がとりあげてくださったとはいえ、渡邉は日本の歴史のうえで、必ずしも著名な人物ではない。彼の生涯と思想をお話することは、この忘れられた日本人の功績を評価するにあたって不可欠だろう。
  第二に、本日のセミナーの会場が、東京大学であることである。この後の話でも触れるが、渡邉は東京大学の前身である帝国大学の初代総長だった。その意味で、今日の東京大学の初代総長と言えるが、今日、そのことを知る人は少ない。渡邉の復権の意味でも、ぜひ東京大学で渡邉について話してみたいと思った。
  第三に、渡邉は今日の建築学会の会長を務めた。建築家でない彼が、なぜ建築学会の会長だったのか。そこには、建築というものについての渡邉の特殊な思い入れがあったのではないか。その思い入れは、「建築と外交」というよりも、「建築とconstitution」という問題に収斂する。本日は、渡邉の頭の中で、大学、建築、constitutionがいかに有機的につながっていたのかを論じてみたい。
 
 
 渡邉はなぜ東大(帝国大学)の初代総長となったのか。学者でなく、それまで文部行政にもタッチしていなかった彼が、その地位に抜擢されたことは、当時から奇異の目で見られていた。立花隆氏は、渡邉の総長就任を指して、「前東京府知事という妙な経歴を持つ官僚で、大学人から違和感をもって受けとめられた」(立花隆『天皇と東大』上、文芸春秋、2005年、308頁)と記している。
 渡邉の総長就任の具体的経緯は不明なのだが、ここでは帝国大学が創設された歴史的背景を紹介して、推察してみたい。1886(明治19)年に創建された帝国大学は、この時期に進展していた国家機構の全体的な大改造の一環であった。1889(明治22)年に大日本帝国憲法が発布されるのは周知のことだが、それに先駆けて、1880年代を通じて諸々の国家の制度改革が行われる。宮中と府中の別による天皇の立憲君主化、華族制度の拡充、官制の大改革による行政機構の整備、内閣制度の導入による七世紀以来の太政官制の完全撤廃などである。
 このような一連の改革の最後に帝国憲法が制定され、日本は立憲国家となった。したがって、憲法の制定は単発的な出来事としてではなく、以上のような改革の連なりのなかで把握されなければならない。Constitutionは、単なる法典としての「憲法」ではなく、国家の全体的なかたちや構造=「国制」として考察される必要がある。
 帝国大学も、国制のひとこまとしてこの時期に成立した。国制の構成要素として大学を作るということに、とりわけ執心したのは、伊藤博文だった。伊藤は、憲法制定が国民に公約された1881(明治14)年の国会開設の勅諭の後、憲法調査のためにヨーロッパに渡ったが、そこで彼が得た大きな啓示は、憲法を相対化するという視座の獲得だった。ウィーンで異端の公法学者ローレンツ・フォン・シュタインと面談した伊藤は、シュタインから、憲法はそれだけでは一片の紙切れに過ぎず、それを十全に機能させるには行政が確立していることが不可欠であることを教示される。あわせて、シュタインは、行政の確立のためには、そのスタッフをリクルートするための高等教育機関が必要であり、大学の創設が不可避と説いた。伊藤は、この教えに感服し、そのことを当時の書簡や覚書に書き留めている。
 そのような国制改革を背景として成立した帝国大学だが、初代総長として迎えられた渡邉は、まさに“国制のファクターとしての帝国大学”を実践するために、八面六臂の活躍を行った。その詳細については、拙著で詳しく論じたので、その参照を乞う。ここでは、渡邉自らが、constitutionというものをどのように考えていたかについて、言及しておきたい。
 
 
 渡邉が、帝国大学総長として行った事績のひとつに、国家学会の設立がある。国家学会とは、今日でも東京大学法学部/同大大学院法学政治学研究科の教員を主たるメンバーとして構成されている学術団体である。1887(明治20)年に創刊された同会の雑誌『国家学会雑誌』は、今日に至るまで刊行され続けており、政治学を中心として日本の社会科学を代表する存在である。
 この国家学会は、渡邉の強力なリーダーシップで創設され、運営された。帝国大学法科大学学長も兼任していた彼は、法科大学内に国家に関する学術を嚮導し普及するための組織として、国家学会を設置したのである。渡邉は、同会を通じて、学者と実務家が交流することを思い描いており、当初、国家学会には渡邉の招きで、伊藤博文はじめ政界官界実業界からも多くの者が入会していた。伊藤博文との関係は特に深く、伊藤は、自らが編纂した帝国憲法のコメンタール『憲法義解』の版権を国家学会に寄贈している。
 渡邉は国家学会を創建したのみならず、そこを通じて独自の国家学を広めようとした。彼が構想していた「国家学」とは、どのようなものだったのか。渡邉が同会で行った講演の次の一節が参考になる。
 
果シテ此憲法及将来制定セラルヽ所ノ法律ガ、直ニ社会ノこんすちちゅー志ょん〔コンスチチューション constitution〕、即ハチ国家ノ構造トナルヤ否ヤト云フコトハ、頗ル困難ナル問題ナリト考フ。而シテ法律ハ単ニ外形上ニ止ラズ、必ズ其精神即チ本体ガ行ハレザルベカラズ。(渡辺洪基「権利ニ就テ」『国家学会雑誌』第6巻第75号(1893年)、1163頁)
 
 ここで注目されるのは、渡邉のConstitutionの理解である。欧米において、constitutionやVerfassungといった語は、単に日本語の「憲法」を意味するだけではない。それらの原語には、構造や組織の成り立ちといった意味もある。渡邉は、まさにconstitutionを「国家ノ構造」と解し、それを憲法や法律とは一応別物だと見なしている。現実の国家の構造を規定しているのは、憲法の条文以前にその精神だからだ、と。その精神が備わっていれば、法律なきところでも、慣習によってconstitutionが構成される場合も多々ある。したがって、「憲法ヲ制定セバ憲法ヲ以テ社会ヲ創造シ、法律ヲ以テ社会ヲ創造シ得ラルヽカノ如キ考ヲ有スルモノ総テ今日誤謬ヲ来タスノ根原ナリ」(同前、1167頁)と喝破される。
 このように論じられて、国家学会の対象とすべきconstitutionも、憲法の条文それ自体ではなく、国家を現実に構成している法であることが説かれる。そのうえで、その研究の目的は次のように定められる。
 
国家学会ニ於テハ、此ノ如キ憲法ナリ総テノ法律ナリ之ヲ以テ固形ノ一物体トシテ考究セズ、其裏面ヨリシテ此ノ如キモノハ行ハルベシ、此ノ如キモノハ行ハルベカラズト云フノ理由ヲ研究シ、此法律ガ其目的ニ反シ世間ニ害ヲナサヽル様ナスベキハ学者竝ニ実際家ノ務メナリト考フ。(同前)
 
 この主張が指し示しているのは、現実の国家の構造が、憲法をはじめとした制定法によって固定されているのではなく、常に流動していくものであるとの認識であろう。そして国家学会の課題は、そのような憲法秩序の絶えざる変遷を見据えて、あるべきconstitutionをその都度構成していく国家活動への寄与に求められ、そのためには学者と実務家の協働が不可欠とされるのである。
 先に、伊藤博文がヨーロッパでの憲法調査で、憲法を行政によって相対化し、それを全体的な国制のなかで位置づけ直すという発想を得ていたことを指摘した。そのような国制の建立として、伊藤が帰国してから1889年の帝国憲法の成立にいたる一連の改革があり、帝国大学の設立もそのひとつのピースだったこと、前述の通りである。帝国大学のなかに渡邉の肝いりで設けられた国家学会の初発の理念を顧みれば、伊藤と渡邉の連携による新たな国制(constitution)の造形が浮かび上がってくるのである。
 
 
 渡邉は、歴史家の間でも、さして著名な人物とはいえない。彼が、東大の初代総長ということを知る東大の教員や学生も少ないだろう。しかし、存命中、彼は「三十六会長」と呼ばれ、令名をはせていた。「三十六会長」とは、それほど多くの学会など各種団体のトップを兼ねていたことからつけられたニックネームである。彼が設立や運営に関わった組織として、国家学会のほか、史学会、統計協会、東京地学協会、化学会、工学会、造家学会、明治美術会といった学会、帝国大学、学習院、工手学校(現・工学院大学)、大倉商業学校(現・東京経済大学)のような大学が挙げられる。
 今回のセミナーとの関連で言えば、彼が一時期、造家学会(現・日本建築学会)の会長に就いていたことは興味深い。彼自身は建築家ではないので、名誉職だったか、組織運営の手腕に期待して乞われたものだったかと推察されるが、渡邉は工手学校の創設にも関わっており、建築というものには一定の関心があったということも考えられる。
 渡邉と建築の関係を問うてみた時に示唆的なのは、彼のconstitutionの捉え方である。建造物について、表面的な形式ではなく、その構造に注視し、常に変遷していく外部の環境のなかで、いかにリフォームをしていくかをチェックし続けるというのが、渡邉のconstitution観だった。それは、建築の何たるかにも通じるように筆者には思えるのだが、このセミナーの続編のなかで、専門家の御教示を得ることができたら幸甚である。

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