はじめに
有史以来、科学技術は国家の生存に大きな役割を果たしてきた。
歴史を振り返れば、先端技術が国際政治や安 全保障に影響を及ぼした事例は至る所で見つけることができる。20世紀前半の2度の世界大戦では、優れた暗号 技術を持つ側が敵側の通信情報を捕捉、敵国の意図を戦闘前に事前に把握し、自らの陣営にとって有利な戦局を つくり出すことに成功した。第二次世界大戦末期には核兵器が登場し、冷戦期の核抑止に基づく米ソ超大国間の 対峙とそれに基づく戦後の国際秩序を生みだした。コンピュータ化により高度に自動化された金融市場の発展は、 通貨取引量を飛躍的に伸ばし、国家の経済発展を後押しして国家間の国力競争を促した。新たな技術は国際政治 や安全保障、経済の様々な側面における国家の競争力に大きく影響し、その競争の結果が国家間関係や戦争の帰 趨に影響を与えてきたのである。
21世紀に入り、科学・技術の発展がますます加速するなか、新技術が国際政治や 安全保障、経済に及ぼす影響に改めて向き合う必要がある。 近年の新技術の発展に目を移せば、サイバー技術、人口知能(Artificial Intelligence: AI)、5G、ロボティクス、 生命工学、宇宙工学、量子技術、極超音速技術、PNT 技術など、安全保障に影響を与え得る技術は数多く存在する。
なかでも、新技術と安全保障という文脈において日本でまだ殆ど注目されていないのが、量子技術(quantumtechnology) である。量子技術とは、次章で詳述するが、量子力学特有の現象を応用した技術のことで、人類の技術水準を一変させ得る可能性を秘めている。米国海軍研究所の研究員ランザゴルタは、「量子技術が『情報時代の 原爆』になり得ると信じる理由がある」と言う。
量子技術の代表例は、量子コンピューティングである。2019年10月に Google の量子コンピュータがスーパーコ ンピュータの能力を超える計算を実行し「量子超越」を達成したニュースは記憶に新しい。かつて殆ど全ての人が「量子コンピュータの実現は何十年も先の夢のまた夢であって、今から考える必要はない」とか「結局は消えていく実現 しない技術だ」と考えていたことを思えば、隔世の感を禁じ得ない。
量子コンピューティングをめぐる状況は、過去 10年の急速な進展により様変わりした。 そう遠くない将来、10年から20年のうちに、数百量子ビット程度の小規模の量子コンピューティングが、量子化学 計算の加速を通じて新しい化学物質や材料、薬の開発プロセスを激変させる可能性がある。
言うまでもないが、これらは航空機材料を始めとする各種装備の開発競争に影響する。さらに10年から30年先に大規模な量子計算が可能になれば、それを応用した成果が様々な分野で出始め、人類の技術進歩を益々加速させるだろう。
Googleは、 この大規模量子コンピュータを2029年に実現すると発表している。量子技術は、量子コンピューティングだけでは ない。量子レーダー等の量子センシング技術においても既に原理が実証されている技術があり、近い将来、電磁波領域の戦い方に変更を迫る可能性がある。
現在、世界の主要国は、この量子技術の研究開発に凌ぎを削っている。例えば、中国は、量子技術が安全保障に 大きな影響を与えることを見据えて巨額の投資を行ってきている。対する米国は、歴史的に量子技術の開発において主導的役割を果たしてきたが、中国による国家主導の量子技術開発を踏まえ、米国がリーダーの地位を維持し 続けるには国家としての継続的な支援が不可欠であるとの認識を新たにし、米国政府は新たな体制づくりに着手し た。さらに米中だけでなく、欧州、カナダ、シンガポール、豪州、韓国、ロシアなども挙って量子技術の研究開発を 進めている。
世界各国が量子技術の研究開発に乗り出す理由は、量子技術が、イノベーションと経済的な利益の源泉であると ともに、安全保障における様々な局面で、戦略的にも戦術的にも、大きなインパクトをもたらすと考えられているからである。
一方で、日本においては、量子技術と安全保障の関係について説明し、問題提起を行った文献は見当たらない。安全保障のための量子技術の開発を日本が主導していく必要はなく、我が国としては純粋な科学技術の 発展の見地から量子技術の研究開発に取り組めばよいとの議論もある。
確かに、これにも一理ある。しかし、量子 技術は革新的な技術であるが故に、それらが世界の安全保障にもたらす影響やインプリケーションを事前に分析し、 必要な対策を講じておくことは、政策の立案・研究に不可欠である。 政策決定において科学技術をどのように評価するかという課題については、技術の実現に関する専門家の予 測や解説をそのまま受け入れるのではなく、あるいは過去の他の技術の失敗事例を参照するのでもなく、量子技術に関する個別の学術的な発展や実用化のプロセスの事実をしっかりと押さえることで、短期的あるいは長期的な予 測を支えるより客観的な議論を行うことが可能である。
ここでは、そのようにして、個別の技術の発展についての事 実を根拠に議論を進める。 次節以降、技術変革と安全保障に関する議論および量子技術とはどのようなものかを把握した上で、量子技術が 国家間の安全保障にどのようなインパクトをもたらし得るのかについて、明らかにしていきたい。
(論文の全文はダウンロードページからご覧になれます)